2015年10月29日木曜日

高祖父の祈り

2011年の夏に書いた「私の高祖父」という記事の続きです。

血のつながりのあるところで発見した唯一のクリスチャンについて、興味がふくらんだということについては言うまでもなく、あの夏の日以来私は高祖父について調べていました。


調べると言っても、有名人ではありませんし、高祖父と接点のあった人は既に生存しておりませんから、母からの情報から推理していくことしかできませんでしたが。

あらためて母から「祖母」の言葉や行いにおける「キリスト教」にかかわるものを聞いてみて分かったのは

まず、
祖母が「自分のおじいさんはクリスチャンで、云々」と言っていたこと。
ここからわかるのは、自分のことをクリスチャンと名乗る宗教であるということです。
私の知人にはプロテスタント、カトリック、そのほか(そのほかってなんだ(;´Д`A ```
の信者がいますが、たまたまなのか、私がプロテスタントだからなのかわかりませんけれどもカトリックの知人たちはご自身のことを「私はカトリック」とおっしゃるので、カトリックではない宗教なのか、という印象を受けました。でも情報としてはかなり弱い。

次に、
2011年の記事にも書きましたが、祖母の口ずさんでいた賛美歌に「主われを愛す」があったということは何か手掛かりになるかも、と思いました。
便利な時代になりこういうことはすぐにネットで検索すれば何かが出てくるわけですが

ウィキペディアに「主われを愛す」という項目がありました。

どうやらプロテスタントの賛美歌のようです。

さらに母の記憶として、

小さい頃、家の近所に救世軍の教会があり、そこの人たちが歌っている賛美歌にあわせて祖母が懐かしそうに小さな声で口ずさんでいたのを聞いたことがある、
また、
祖母がほかの家族とは違う何かキリスト教について肯定的な事を言って、娘である母を教会の日曜学校に行かせるようにした
ということもあったようでした。
母が幼少期を過ごした場所の近くにはカトリック教会もあるので、祖母がもしもカトリックに慣れ親しんでいたのであればそちらに行かせたはずで、そういう点からもおそらくカトリックではないどこか、と推測しました。
 
それにしても、私の母はキリスト教が大嫌いなので、日曜学校に通った経験があったということにはとてもとても驚きました。


 
さて、
高祖父が元気であった当時というのは、世界遺産となった富岡製糸場をはじめとするシルク関連の産業が群馬県各地で盛んだったころです。外国の技術とともにキリスト教が入ってきた、そういう時代でした。
いろいろな書物やインターネットで当時の群馬県に存在していたキリスト教会について調べたところ、同志社の新島襄先生でおなじみの安中教会やハリストス正教会、天主公教会、日本聖公会など、短期間にものすごい数の教会が誕生していたのだということを知りました。

これではまったく「高祖父の教会」にたどり着くことができない…と一瞬あきらめかけましたが、

重要な手がかりがあることに気付きました。

家族親族とゴタゴタしながらもクリスチャンが教会堂を建てるという場合、そのクリスチャンはいったいどこに教会堂を建てようとしているのか、ということです。
ゴタゴタの原因は結局金銭的な問題だったらしいのですが、同居する孫(私の祖母)に賛美歌を教えているような高祖父が、どこか遠方に教会堂をつくるとは考えにくいものがあります。とすれば、この近辺…。

「この近辺」というのは、私が今住んでいるわが家の近辺という意味でありますが、
それは以前書いた記事にあるとおりでありまして、
私はずっと知らなかったのですが、今自分が住んでいるところからそれほど遠くないところに祖母と高祖父が住んでいたとされる場所があったのですね。

…だとすると、まさか、あれか!?




本当にそうであったら、すごいというか、ここまで来ると面白いとしか言いようがなくなるのでありますが、


実は、我が子が通っていた幼稚園はキリスト教会によって建てられたとても古い幼稚園でありまして、昔はその場所に会堂もあったということでした。幼稚園が作られたきっかけは、近所の忙しい農家の子供たちを預かるようになったことだったらしく、
現在その場所は教会としての活動は行われていませんが幼稚園の建物の中のお遊戯室のようなところがチャペルのようにしつらえてあるのです。



我が子にとっての幼稚園の3年間というのは、アトピーが最もひどい時期で、親子ともどもつらいことばかりでしたが、幼稚園に行けば先生たちがとても優しく、お友だちやママ友も優しく、とても楽しく過ごさせていただきました。
そして、この幼稚園の主任先生と知り合っていなかったら、
私を心の病にまで追い込んだ「小学校入学」について、登校班や子供会育成会への加入だのという細かい話が絶対にうまくいかなかったであろうということもわかっており、
未来に起こることの全てを見通しておられた
神さまが用意してくださった幼稚園だった、と私は確信しているのですが

もしこの幼稚園が高祖父が建てた教会と関係のあるところであったら・・・



まるで小説のようです。

毎日幼稚園に楽しそうに出かけ、小さな手を合わせてお祈りをし、聖書のお話を聴き、賛美歌を歌い、
そう、「しゅわれをあいす」も歌っていた娘
そこが?高祖父の??

飛び跳ねたくなる気持ちご理解いただけるでしょうか。
 

そしてもし本当にこの幼稚園が高祖父が建てた教会と関係のあるところであったら・・・

母はもしかしたら、彼女のひいおじいさんが深くかかわった教会の幼稚園に知らないうちに行って聖書のお話を聴いていたということになるのかもしれないわけです。


キリスト教なんか大嫌いだしクリスチャンの娘も気に入らないと言っていながら、なぜか孫の「キリスト教」行事に何度何度も楽しそうに足を運んでいた母のことを思い出すわけですが、
そこが高祖父の、と思ったら・・・




そして


高祖父と一緒に楽しそうに賛美歌を歌っている幼い祖母と、楽しそうに賛美歌を歌っていた幼かった日のわが子の姿が重なって見え

目頭が熱くなるのでありました。

晩年、脳の病気のために、人の言うことはわかるけれども自分の言葉を発することが出来なくなってしまった祖母に福音を語りつづけていた私。
その頃の私は祖母の幼い頃のことなど全く知らなかったのでありますが、
祖母は、私の言葉を聴きながら心の中で何を思っていたのでしょうか。

(じいちゃん。私、希望が湧いてきたよ!)






やがて来るべき時が来て、
母が信じている占い師が言ったとおりに成仏していない、
成仏なんてしているはずのない高祖父と会えること

とても楽しみです。




「やだあーじいちゃん?アタシ??孫の孫だよ~~(^O^)
で、あれが孫の孫の子。わかるぅ~??」




(どんな会話するつもりだ)


 
 
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 2019年1月 追記


国立国会図書館デジタルコレクションで大正期の基督教年鑑を数冊調べましたところ、
幼稚園のところに作られた教会の土台となった古い教会の住所が番地までわかりまして、私の推理でほぼ間違いない、という結論に至りました。
また、私の祖母が歌っていた「主われを愛す」につきましては、祖母が5歳の時に発行されたその教会が所属する宗派の「こどもせいか集36番」に収録されていました。

2015年10月19日月曜日

「羊のおり」って何?

新改訳聖書第三版で詩篇を読んでいたところ意味の分からない単語に出くわしました。
「羊のおり」
68篇13節、78篇70節に登場する言葉です。


あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、
銀でおおわれた、鳩の翼。
その羽はきらめく黄金でおおわれている。
全能者が王たちをかしこで散らされたとき、
ツァルモンには雪が降っていた。
詩篇68篇13,14節

主はまた、しもべダビデを選び、
羊のおりから彼を召し、
乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れてきて、
御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを
牧するようにされた。
詩篇78篇70,71節


次に新共同訳聖書で同じ辺りを引用します。

主は約束をお与えになり、
大勢の女たちが良い知らせを告げる
「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。
家にいる美しい女も戦利品を分けている。
あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。
鳩の翼は銀に、羽は黄金に覆われている。
詩編68篇12~14節

僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り
乳を飲ませている羊の後ろから取って
御自分の民ヤコブを
御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。
詩編78編70,71節


そしてNIVからも同じ所を引用


Even while you sleep among the sheep pens,[e] the wings of my dove are sheathed with silver,
its feathers with shining gold.” When the Almighty[f] scattered the kings in the land, it was like snow fallen on Mount Zalmon.
Psalm68:13,14
Psalm 68:13[e]Or the campfires; or the saddlebags
Psalm 68:14[f]Hebrew Shaddai



He chose David his servant and took him from the sheep pens;from tending the sheep he brought him to be the shepherd of his people Jacob, of Israel his inheritance.Psalm 78:70,71



まず、68篇のところ
新共同訳では「羊のおり」と訳さず鞍袋と訳してあります。
これについてはNIVの方に注が付いていまして
Or the campfires; or the saddlebagsということで、「キャンプファイアー」または「鞍袋」

引照付きの新改訳聖書第二版では、「羊のおりの間」の「間」の所に小さく(1)とあって参照すると創世記49:14と士師記5:16節とあります。
なのでそれぞれを開いて見たところ「鞍袋の間に伏す」とか「鞍袋の間に座って」という表現がありました。



次に78編ですが、3つの訳とも全て「羊のおり」です。

ところで、「羊のおり」って何度も何度も読んでいると「ひつじ・のおり」なのかも、とか、「おり」という名前の羊なのか、という妙な気分になってきたのですが、(^_^;)
NIVを見ると the sheep pens となっていますので「羊の」だということがわかりました。




68篇の方は創世記と士師記を参照しながら、そして書かれた時代背景を考えながら新共同訳とあわせて読んでみると、戦いに勝った人々の様子ということで、なんとなく雰囲気がつかめるような感じがしました。

また、78篇の方ですが、ダビデが、「おり」、または「囲い」に入っている「本物の羊」を飼っている立場であって、その「おり」の中では雌羊が赤ちゃん羊にお乳を飲ませているという、
そういうところにいたダビデを
神さまが取り(召し)出して、羊ではなく神さまの御民を、羊を牧するかのように養うようにされたという意味でしょうか。

これまで私にとって羊飼いというのは
「大量の羊を広い緑のまきばに放している」
イメージなのでありますが、
「羊のおり」から召されたダビデということになると、
他の羊たちから取り分けられた囲いの中で赤ちゃんにお乳を与えている雌羊のようなデリケートな羊たちを取り扱っていたというわけで羊飼いの印象が違う感じがしました。
そういう部分を強調するための「羊のおり」なのでしょうか?
というか、羊飼い自体についてもほぼわかっていない自分に気付きました。

イエスさまが語られる良い羊飼いというのはもしかしたらこの詩篇のイメージなのかしら。
だからこそ、迷子になった一匹を探しに行くのかな。


2015年10月9日金曜日

「乳幼児から放射性セシウム検出されず」ってさ(怒)

毎日新聞のサイトで記事を読んで頭に血がのぼってしまいました。


何を怒っているのかというと、

1.近ごろでは、関東に在住の、しかも食品にとても気をつかっている方々の尿からも放射性セシウムが検出されているということを知っている。


2.甲状腺がんや甲状腺の疾患は確実に増えていることを肌で感じている。(甲状腺の問題に関する新しい看板を作って宣伝を始めた医院が高崎と伊勢崎にあることを知っている。)


3.特徴的な重い病にかかる方が周りでも確実に増え、また、突然死も増えている。(親族や知人)
そして近所では心臓の奇形を持つ赤ちゃんが2名(2軒)心臓検診で引っかかった小学生が2名(前述の赤ちゃんの家とは別の2軒の家の子どもたち)


という体感の中にあるが


1.原発事故は遠い過去のもの、終わったこと、だと考えるようにマスコミが旅番組やワイドショーで人々を誘導。そして人々が、「確実に放射能汚染のある場所」に観光で出かけ、ほこりを立てながら歩き、土や植物に触れ、海水に身体や顔をつけ、もしくは基準値をわずかに下回る魚を捕って食べて喜んでいる姿を積極的に報道したり、「食べて応援」することが美徳であり健康に何も悪いことはないと言わんばかりに城島くんに24時間マラソンを走らせるようなことをしている。


2.そして、「鼻血」の問題。2011年の事故直後にそれは新聞記事にもなっていたし、自民党の議員も取り上げていたのに、なぜかほとんどのマスコミが沈黙してしまった。


というような中にあり、今回のこの記事がまた新たに

「放射能ってけっこう安全でしょ」アピールをしていると感じたのではらわたが煮えくり返ってしまったのです。

人は皆、自分に都合の良いことを聴きたがるものです。

大手メディアがああいう断定的な見出しで報道することの害悪に気付いてほしいと思います。

論文の紹介をするというような時には、目新しさだけでなく、落としてはいけないポイント、というものがあることを忘れないでほしい。多くの人はソースにあたらず記事を読むだけなのですから。





それでは
祈りつつ、引用文(太字黒い文字)に併記する形で
思うことを紺色の文字で書いておきたいと思います。






「東京大などの研究グループは8日、東京電力福島第1原発事故を受け0〜11歳の子ども2707人の内部被ばくを調査した結果、体内から放射性セシウムは検出されなかったと発表した。乳幼児などを対象にした内部被ばくの大規模な調査結果が公表されたのは初めて。論文は9日、日本学士院の科学雑誌の電子版に掲載される。」

・0〜11歳の子ども2707人の内部被ばくを調査をしたのは住民の要望によるものなのか研究グループの「被ばく予想」に対する答を求めるためなのか。それとも研究者の興味ではなく国の命令による調査なのかこの記事からはわからない。主体者が誰であるかによって設定条件が変わると考えられ、また、結論の表現の仕方が変わるはずなので毎日の記者さんにはここをきちんと書いてほしいと思う。

・体内から放射性セシウムは検出されなかったという結論らしいが、何故セシウムだけを問題にするのか。セシウム以外の放射性物質について調査はしなかったのか。それとも、検出されなかったのがセシウムだけだったという意味かこの記事ではわからない。

「乳幼児などを対象にした内部被ばくの大規模な調査結果が公表されたのは初めて。論文は9日、日本学士院の科学雑誌の電子版に掲載される。」…そりゃ、今どきこのネタ関連は何をしても初めてだからね、学者は楽しくて仕方がないだろう。



「研究グループによると、検査は福島県内の病院3カ所で乳幼児用に開発したホールボディーカウンターを使い2013年12月〜15年3月に実施。約7割が福島県在住で、宮城や茨城県などの在住者もいた。装置の検出限界値は成人用の5分の1以下の50ベクレルに設定し、すべての子どもで検出されなかった。」

・調査に参加した子どもたちはどういう基準で選んだのかこの記事ではわからない。県名だけではなく論文には詳細が記録されているのだろうか。また、原発事故当時の行動の詳細もわかっているのだろうか。身長、体重、生活パターン、体質(便秘しがちとかそうでないかとか)、病気服薬の有無とか、いったいどういう基準で2707人選んだのだろうか。
・ホールボディカウンターだけでの結論?
・50ベクレルを検出限界値に設定したと言っているが、セシウム137が1ベクレルあればセシウム137の原子が約14億個も存在しているっていうことだからね、「すべての子どもで検出されなかった。」とするこういう発表の仕方は素人相手に汚いんじゃないかと私は思う。



「不検出の場合、年間の内部被ばく量は16マイクロシーベルト以下と推計され、外部被ばくを含めた追加被ばく線量の国際的な限度値年1ミリシーベルトを大きく下回るという。
 また、検査対象の保護者に福島県産のコメや野菜、水道水を避けているかアンケートしたところ、内陸部の福島県三春町では「すべて避けている」と回答したのは362人のうち4%にとどまった。研究グループは「福島産の食材を口にしている子どもも、内部被ばくの健康リスクは低いことが確認された」と指摘している。」


 「また、検査対象の保護者に福島県産のコメや野菜、水道水を避けているかアンケートしたところ、内陸部の福島県三春町では「すべて避けている」と回答したのは362人のうち4%にとどまった。」と言うが、なぜ全体の平均ではなく唐突に三春町の4%という数値だけを取り上げるのか。他の自治体では何%の保護者がすべて避けていたと解答したのか。この記事を読む限りにおいては三春町以外は90%以上だったのではないかと想像することだって可能だ。
たまたま三春町が4%という低い数値であったからというので、印象操作をする目的でこれを利用したのではないのかと想像することだって可能だ。
調査対象の約7割が福島で残り3割は宮城、茨城などだということで、「など」がどこの県かわからないが、わざわざこのような検査を受けに来るということは、被ばくを心配している保護者であるだろうということが予想されるので、そうそう無防備な生活をしているとは思えないのだが。

・…それに、だ。あえてお尋ねするが、そもそも市場に出まわっている食品は安全なんだろう?検査していない高汚染地の家庭菜園のものを食べ続けていた群が内部被ばくの健康リスクが低かったというのならニュースだろうが、福島県産を避けていた避けていないとはどういう意味なのか。福島県産はやはり危険であるかもしれないと予想した上で相関を調べるためそういう調査を行ったとしか聞こえないが。




「内部被ばくを巡っては、福島県が成人や子どもを対象に2011年6月から今年8月まで延べ約26万5000人を対象に検査を実施し、大多数について放射性セシウムは検出されなかった。」


・大多数とは何人なのか。この調査でも子どもから放射性セシウムは検出されなかったのか。のべ人数で表されているが、検出された人は常に同じ人々だったのか。それとも後になって検出されるようになったり逆に不検出になった事例はあったのか。最近の健康状態と放射性セシウム検出の有無には相関関係があったのか無かったのか。
論文についての記事だったはずなのに関連事項として福島県の検査結果をここに加えることの意味は、原発事故によって放射性物質が比較的多くまかれてしまったとされる地域の人々からとにかく「放射性セシウムが検出されなかった」と言いたいだけなので、私が指摘したようなことはここに書く必要はないし興味があるんなら自分で調べろ、と記者さんは思うかもしれないが、



「放射性セシウムが検出されなかった」という調査結果がニュースだというのなら

そもそも、そんな内部被ばくするかもしれないけどよくわからない、一か八かという食べ方飲み方は当初から禁止すべきだった。
それどころか、全ての国民が憲法で言うところの健康で文化的な生活を営むために、汚染地から人々を強制的に引き離し、汚染地での経済活動を国が一切禁止すべきだったのではないのかとさえ思う。



福島産を食べていた人も大丈夫でした、っていう結論がもし今回出されたというのなら、このデータをもって初めて大丈夫だったという結論なのだ。
(検出限界は50ベクレルでちょっとアレだけど…。)

つまりこれまではわからなかったのだ。
大丈夫なのかどうかわからなかった。
わからないのに大丈夫だと言われていたので
調査対象者はそして多くの人々はずーっと食べたり飲んだりしていたって事だ。


…人体実験だよね。






そして、
重要なことは
50ベクレル出たとか出ないとかというよりも、
それによって身体に異常が起こるのか起こらないのか、ということ。

…そして、言うまでもないことだが
このことによる異常は絶対出してはいけないのだ。

ただ、

ツイッターを見ていたらどこかの方が、
どんなに気をつけていたって何をしていたって病気にもガンにもなる
と言っておられたのを読んで

…そう、病気の因果関係なんて絶対わからないって言うんだよみんな。
特徴的で因果関係が明白なものまでも
本当はわかっていてもわからないことにされる。
BCGを打ってBCGの形に腫れていてもBCGとの因果関係は不明だと言ってのける事が出来る、煙にまくのがうまい高学歴高偏差値の学者と医者と役人でまわしている国だから。



ああ、放射能。

いやな国になったものだ。








追記

メディアが、

弱者の立場に立たず

為政者側に立った報道をするようになる


これが「戦争」の始まりです。





論文に出会えたので、リンクを貼っておきます



三春の4%の話、362人の子どもたちのうち105人はbottled waterを飲んでいるんです。46人が福島産米を避け、50人は福島産の野菜を避けている。

で、4%って言うのは、それら3つ、水も米も野菜も全部避けていた人の割合なんですね。全部避けていた人の割合だけを取り上げるっていうのはやはり印象操作が否めない。


そして、南相馬に本籍があり南相馬に現在も居住している人に至っては

638人中507人が水を避け、492人が米を避け、465人が野菜を避けている。で、それら全てを避けているのは全体の57%。だそうです。

ベン図もあってわかりやすかった。

2015年10月3日土曜日

当然と言えば当然の流れだが

以前NHKのクローズアップ現代で、公式確認から50年が経った新潟水俣病の話題を取り上げていた。
50年経ったところでまだ終わりが見えず、否、見えないどころか胎内で影響を受けたと考えられる患者さんの苦しみを…当然そういうことはあるだろうと思ってはいたが、改めて恐怖を感じながら知ることとなった。


これまでのこうした有害物質によって引き起こされてきた病は発生源である企業の工場を中心とする周辺地域に特徴的に見ることができるものであり、原因物質との因果関係を動物実験で示すことが可能であった。しかし、それであっても最小限の「支出」で自らの傷を小さく済ませたい企業や国の思惑によって、被害者は十分な償いをしてもらうことが出来ぬまま時は流れていく。

公害病、薬害、予防接種被害、etc.
すべてがそうだ。
原因が明らかであってもそう簡単に「はい、そうですか」なんて認めるところを見たり聞いたりしたためしはないし、実際に被害にあって得た経験から言えることは、医者や役人がよってたかって苦しむ被害者をこれでもかこれでもかと傷口に塩を塗り込み、否、それどころかじりじりじりじりと、落ちたら死んでしまうであろう断崖絶壁に追いつめていくということだ。



だから、原発事故はいったいどうなることだろうかと、いったい国はどうするつもりなのだろうかと眺め続けてきたが、
…これだけ広範囲に放射能がぶっ飛んでいるわけだから、
公害病の先例から考えれば企業も国も補償しようなどとは考えていない事は明白で

しかも、人体を突き抜けていく放射線が引き起こす病なんていくらでも考えられる、つまり、病と放射能との因果関係なんてとことん否定できるから

補償不必要な自覚無き「実は被害者」かもしれない病人だらけという暗黒の状態に入り込んでいくのだろうと嫌な確信を得た今日この頃。



日本の名医を検索できるサイトに「治療数・手術実績数からみる病院ランキング」という資料が公開されていた。
(問題があると困るのでリンクははりませんから、興味のある方は「」内をキーワードとして検索をかけてみてください。)

具体的な病名は書かないが、20種類くらい最近3年間の県別データを比較してみたところ、明らかに患者が増加していることがわかる。

まあ、深刻な疾病の増加は東日本だけにとどまってはいないので、それをどうとらえるかという事も考えなければいけないが、
…「食べて応援」の「成果」が出ているのだと取ることもかもしれないし、放射能だけではなく著しい環境の悪化、何らかの原因による日本人の体質の悪化…いろんな事は考えられる。
しかし我が県とその周辺県で治療数がかなり増加している子どもたちの身体に起こった「たちの悪い疾病」について
…おそらくは病院の小児科の医師たちは口に出さぬまでも何か感じていることがあるのではないだろうかと思う。…はっきり言えないのだろうが。

それとも彼らも言うのだろうか。甲状腺の腫瘍がたくさん発見されるのは検査数が増えたからなのだと言うのと同じように心配性の母ちゃんが増加していて検査数が増えたために悪性の疾患が多数発見されたのだと。




東日本に住む「私」の親戚5軒の中で起こったここ2年くらいの病。
川崎病1名
紫斑病1名
橋本病1名(成人男性)
バセドウ病1名(成人男性)
白血球数の異常1名
膀胱ガン1名

親族ではない近所の人にまで範囲を広げると、心疾患による突然死、またはガンによる闘病を開始した人、心臓に異常のある赤ちゃんをそれぞれ複数名挙げることが出来る。

もちろん因果関係なんてわからない。
そして本人達に自覚がないように全く関係なんか無いのかもしれない。
それにわかったとしてもいまさらどうしようもないだろう。
原因がどうであれ…要するに闘病生活が始まってしまった
彼らにとってはそういうことなのだ。


もしも因果関係があり補償があるとしても、
病気が治るわけではなく、
治療費の負担が少なくなるというだけのこと。
それでもそれはそれでありがたいのかもしれないが、


…むなしい。