2024年9月12日木曜日

【備忘録】「聖」であることが勧められていると考えられる箇所

 「御名があがめられますように?」https://kyudochu.blogspot.com/2024/09/blog-post.html

という記事を書いた後も「聖」ということについて考えつづけておりました。


「聖」とは、「分離する」とか「切り離す」ということがもともとの意味なのだ、と書いたわけですが、

聖とはそういうことなのだ、と理解すると、以下に引用する御言葉(口語訳聖書より)は「聖」という言葉は書いてないけれども「聖」であることの勧めであるのかと思いました。


あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。
出エジプト記23章2節

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
マタイによる福音書7章13、14節

そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
ルカによる福音書13章24節

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ローマ人への手紙12章2節

不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
コリント人への第二の手紙6章14~17節

不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
ヤコブの手紙4章4節

世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。ヨハネの第一の手紙2章15節


2024年9月8日日曜日

【備忘録】主と主の言葉は変わることはない

また、こう言われます。
「主よ、あなたは初めに地の基を据えられた。
天もあなたの手の業である。

天地は滅びるが
あなたはいつまでもとどまられる。
すべてのものは衣のように古び 

あなたが外套のように巻くと
これらのものは、衣のように取り替えられる。
しかし、あなたは変わることなく
あなたの歳月は終わることがない。」
ヘブライ人への手紙1章10~12節(聖書協会共同訳)


天地は滅びるが、あなたは立っておられます。
これらはすべて、衣のように朽ち果てます。
あなたが上着のように取り替えると
これらは消え去ってしまいます。
詩編102章27節(聖書協会共同訳)



イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙13章8節(聖書協会共同訳)

私は主である。変わることはない。
ヤコブの子らよ、あなたがたも滅びることはない。
マラキ書3:6(聖書協会共同訳) 


私はとこしえに、彼のために慈しみを守り
私の契約は変わることがない。
詩編89編29節(聖書協会共同訳)


私は知った。
神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく
加えることも除くこともできない。
こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。
コヘレトの言葉3章14節(聖書協会共同訳)


あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。
申命記4章2節(聖書協会共同訳)


私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。
申命記13章1節(聖書協会共同訳)


「主はこう言われる。主の神殿の庭に立ち、主の神殿に礼拝に来るユダのすべての町の者に向かって、私が命じた言葉をすべて語れ。一言も減らしてはならない。
エレミヤ書26章2節(聖書協会共同訳)


御言葉に付け加えてはならない
あなたが懲らしめを受け
偽りの者とされないために。
箴言30章6節(聖書協会共同訳)





2024年9月1日日曜日

御名があがめられますように?

38年前、私が洗礼を受けた福音的な教会で教わり、礼拝の時に唱えていた「主の祈り」は

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

というものでした。

しかしふと思いました。
保育園児だった頃に教えられた主の祈りはたしか・・・
はろうどびーざいねーむ・・・


hallowed be thy name

偶像のあふれた家に育ち、寺の和尚さんが所長をしていた保育所に通っていたのにいったい誰から英国聖公会祈祷書の主の祈りを教えられたのか、ということについて今日は語りませんが、

しかしとにかく、イエスさまがお弟子さんたちに「祈り」としてまず願うようにと教えて下さったことは「はろうどびーざいねーむ」だった。


hallowed be thy nameって「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」とイコールではないですよね?
hallowed be thy nameはギリシャ語聖書ではἉγιασθήτω τὸ ὄνομά σου· であって、(まあ、これをアプリに翻訳させると御名をあがめさせたまえと訳してしまうのですが)

 Ἁγιασθήτω Hagiasthētō は
Strong's Greek 37 ἁγιάζω  hagiazó 

Definitionは to make holy, consecrate, sanctify 
だから、 I make holy, treat as holy, set apart as holy, sanctify, hallow, purifyという感じで使われる。
なので、これは「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」とするよりも

カトリック教会と日本聖公会の共通口語訳
「み名が聖とされますように」

日本正教会の「天主経」
「願はくは爾の名は聖とせられ」

これらの方が原文に忠実だと思います。




「聖とされますように」とは
聖でないものとの「区別」を求める言葉です。
なぜなら、「聖」とは、「分離する」とか「切り離す」ということがもともとの意味だからです。 
Strong's Greek 37 ἁγιάζω  hagiazó は 
Strong's Greek 40 ἅγιος hagios の派生語なのですが
この40番 hágiosの基本的中核的な意味は「異なる」というものだそうです。
つまり、「聖」という言葉のおおもとの意味は
創造主である神さまが「この世にあるものとは異なる」ということですから、
「聖とされますように」とは、「神聖四文字であられるお方のお名前が、世の神々のようなとはものと混ぜられることなくしっかりと切り離され、比類なき「唯一の特別な」お名前とされますように」と言っているのではないか、と思います。




そのようなことを考えておりましたら、
ふと
ヨハネによる福音書17章の御言葉が思い出されました。

新共同訳聖書ヨハネによる福音書17章14~17節
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ὅτι οὐκ εἰσὶν ἐκ τοῦ κόσμου, καθὼς ἐγὼ οὐκ εἰμὶ τοῦ κόσμου
なぜならわたしが世のものではないのと同じように、彼らも世のものではないからです

ἐκ τοῦ κόσμου οὐκ εἰσὶν καθὼς ἐγὼ ἐκ τοῦ κόσμου οὐκ εἰμὶ.
私が世のものではないのと同じように、あなたも世のものではありません。


神さまが「聖」であられ
イエスさまも「聖」であられ
イエスさまが「聖」であられるのと同じように
信じる者たちも世には属さず「聖」である。


そして、


彼らが悪い者からまもられ聖であり続けるために
Ἁγίασον αὐτοὺς ἐν τῇ ἀληθείᾳ σου·
あなたの真理によって彼らを聖なるものとしてください、と
イエスさまは祈られました。
そして、真理とは何かといえば
ὁ λόγος ὁ σὸς ἀλήθειά ἐστιν.
「あなたの御言葉」は真理だと。


有名なヨハネによる福音書14章6節を思い出します。

Ἐγώ εἰμι ἡ ὁδὸς καὶ ἡ ἀλήθεια καὶ ἡ ζωή· οὐδεὶς ἔρχεται πρὸς τὸν πατέρα, εἰ μὴ δι’ ἐμοῦ.
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければ、だれも父のもとにくることはない。