2023年2月27日月曜日

バベルの塔とハルマゲドン(3)隠れたミグドル

出エジプト記14章2節にミグドルという地名が登場します。
「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。 ・・・(口語訳)
ミグドルという言葉は Strong's Hebrew 4024מִגְדּוֹל 聖書の中に6回登場する言葉で、
この出エジプト記14章2節のほかに
民数記33章7節エタムを出立してバアル・ゼポンの前にあるピハヒロテに引き返してミグドルの前に宿営し、
エレミヤ書44章1節エジプトの地に住んでいるユダヤ人すなわちミグドル、タパネス、メンピス、パテロスの地に住む者の事についてエレミヤに臨んだ言葉、
エレミヤ書46章14節「エジプトで宣べ、ミグドルで告げ示し、
またメンピスとタパネスに告げ示して言え、
『堅く立って、備えせよ、
つるぎがあなたの周囲を、滅ぼし尽すからだ』。
エゼキエル書29章10節見よ、わたしはあなたとあなたの川々の敵となって、エジプトの地をミグドルからスエネまで、エチオピヤの境に至るまで、ことごとく荒し、むなしくする。
エゼキエル書30章6節主はこう言われる、
エジプトを助ける者は倒れ、
その誇る力はうせる。
ミグドルからスエネまで、
人々はつるぎによってそのうちに倒れると
主なる神が言われる。
 
この6か所については地名としてのミグドルですが
 
実は地名ではなく「塔」という意味でのミグドルという単語がサムエル記下22章51節にあります。
で、サムエル記下22章のところはダビデの詩でありまして、詩篇18篇と共通するものなので、詩編18編51節にもミグドルという言葉があります。
しかし、日本語の聖書ではミグドルという言葉、つまり「塔」という言葉を「塔」とは訳さず、ミグドルのもととなった言葉だとされるgadal Strong's Hebrew 1431の持つgreatというような意味を充てています。
それはおそらくמגדיל מִגְדּ֖וֹלのどちらであるかはっきりしていないからなのだ、とは思うのですが
日本語の聖書ではサムエル記下22章を読んでも詩篇18編を読んでもミグドルを見出すことはできません。
明治訳でもミグドル=塔 とは書いてありません。
 
しかし、KJVではサムエル記下22章と詩篇18編にはgadal風な訳を入れるのではなくtowerと訳し、
He is the tower __ of salvation for his king and sheweth mercy to his anointed unto David and to his seed for evermore
 
また、New American Standard BibleやAmplified BibleでもHe is a tower of salvationと訳しています。
 
研究が進んだ結果として日本の翻訳聖書に「塔」という言葉が見えないのかもしれませんが
ミグドルという言葉つまり「塔」という言葉はメギドと同じ子音MGDを持っています。いや、だからこそメギドと同じで「塔」という意味です。
以前ハルマゲドンについて書いた記事でメギドは「塔」、「塔」と言えばバベルの塔がイメージできるということを書きましたが、
聖書の中の二か所に存在するダビデの詩を読んで改めて気付くのは、そもそも「塔」であるのは
神聖四文字なるお方なのだ、ということです。
と考えるとバベルの塔は、
創造主である神さまが「塔」であるにもかかわらず、別の「塔」を作ったと読めるわけです。
似て非なる「塔」、傲慢な思いで造ろうとした「塔」!
 
そういうことをあらためて確認しつつ、初めに戻って出エジプト記の14章2節
この場面は「葦の海の奇跡」の直前ということになりますが
神さまは「ミグドル」という言葉を、塔という名の場所をあえて示され、その「音」を人々に聞かせたのかもしれません。この地名はヘブライ語を理解する人々にとって、塔であられる神さま=力ある創造主 への信頼を今ひとたび確認するための良い機会となるということが期待されたのだと思います。
 
そんなふうに考えながら
また改めてヨハネの語る「ハルマゲドン」
なぜ「ハルマゲドン」なのか、「ハルマゲドン」とは何なのかということについて、
前回まではメギドという音から「塔」を連想し
「塔」からバベルの塔を連想し、という
優秀な人々が倒れニムロド側にある人々が滅びていく「塔」ということを強く思ったわけですが
しかし、そこにまことの塔であられるのは父なる神さまであるという視点を持つならば
「ハルマゲドン」とは
創造主である神さまの側にある者たちにとってはまさに葦の海の奇跡を体験する直前に聞くことになった「ミグドル」であり、
イスラエルの前を行かれ、後ろを守ってくださった主が
同じように私たちと共にあり、
守ってくださるという
恵みと憐れみと喜びを感ずることのできるキーワードであるように思えたのです。
良き羊飼いである主が大切な群れを導き、奇跡によって悪い者たちの手から守ってくださったあの日を
思い出ささせてくれるのMGDという言葉。
主にある者たちにとってMGDとは
神の力強い御手と神の国の到来の喜びへのますます高まる強い期待
そういうものだと思いました。
 
詩篇23篇4節を思います。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 

2023年2月21日火曜日

イザヤ書8章20節 絶望の淵から

ずっとイザヤ書8章20節を考え続けていました。

לתורה ולתעודה אם לא יאמרו כדבר הזה אשר אין לו שחר׃

何が気になっていたのかというと Strong's Hebrew 8584 תְּעוּדָה です。

旧約聖書にはわずか3回しか登場しないこの言葉

Definitionでは testimony, attestationとされるこの言葉をどう受け止めればよいのだろうか、と思ったからです。

לתורה ולתעודה

torahとteudah

torahはtorahですからそれでよいのですがteudahとは?

それによらなければשחרにならないとイザヤは言っている。

שחרは夜明けです。見事な「絵画」のような単語です。

ש ח ר שחר

ר地平線に真っ赤な真っ直ぐな光が走る

חやがて太陽がわずかに顔をのぞかせる

שそしてまばゆいばかりの光が地全体を照らす

 

闇の世にはどうしたら夜明けが訪れるのか




לתורה ולתעודה

 torahとteudah

 torahとteudahの前にはそれぞれラメドלが付いています。

ラメドとは何だろうと考えるときに思い浮かぶ二つの単語

 למדは教えられて学ぶということ、לקחは与えられたものを受け取ること

 

 

תורה

תעודה

 torahとteudahという単語をじっと眺めているとteudahという単語は

תוのあいだにעが入りこみ

רדに入れ替わっているのだということに気付きました

それはまるでイザヤが、「 torah」という言葉を土台にして「teudah」という単語を造語したのでなはないかと思わせるような類似性だと私は思いました。

両者共通の文字תはヘブライ文字の最後の文字ですから「これより後はない=完成され何も付け加えなくてよい」という意味を持つものです。

そしてוは、創世記の各節の頭についている途切れることのないことを表現すると同時に神さまיが天から地に下ってきたことを表す文字でもあります。

 torahという語のתוの間にעが入り込んでいるということは

עという文字は「目」であり、「見る」わけですから

付加する必要のないものを第一とした人が「見る」

torahを第一とした人が「見る」=神を信じた人が何かを見る=経験した わけです。

その経験の後にוという文字=天の神さまが地に居る私たちの生活に介入されたことに気付く=神さまが業(わざ)を見せてくださったと悟る

 

torahという単語はוの次にרが在るので、רは頭を表す文字ですから、その前に置かれた文字のあらわすものについて「一番上」置いたり、据えたり、ということだったり、頭で良く考えるという意味になるわけですが

teudahはרではなく、רとは形が似ているのだけれども異なる文字、「角」をはっきりつけるדを次に持ってくる。דは扉です。つまり、その前に置かれた文字であらわしたものを扉をしっかり閉めてとじ込めてしまうのです。

אבדのように、אבアブ=父 をドアの前において閉ざしてしまうと

Strong's Hebrew 6 אבד abad 「滅び」てしまうわけですが

 torahを第一とした人、神を信じた人が経験したことを心の中にしっかりとどめておいたらどうなるかと言えば

扉に向こうには
ה=アブラムがアブラハムになった時の「ハ」が待っている。

הは神さまの聖い霊、神さまの与えたもう永遠の命。


つまり、

torah תורה は付加する必要のないものが神さまから与えられたので、それをまず第一とし、もしくはしっかり考えて行うならばהに至る

teudah תעודה は torahをまず第一とする人が神さまによって経験させていただいた事をしっかりと心にとどめるならばהに至る

teudahתעודהが「証し」と訳される理由が分かったような気がしました。

と、そこまで考えたとき、

イザヤが8章20節で語った torahとteudah

これは申命記にある御言葉を意識しているのではないか、と思いました。

これは、いきなりそう思いついたわけではなく、間に一つ

「イエスさまが申命記を好んで読んでおられた」ということがふっと頭をよぎったからなのですが。

申命記の該当箇所と考えられるものを口語訳聖書から引用します。

ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。
申命記4章9節

彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。申命記10章21節

しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。申命記11章7節


以上のことを踏まえた上で
イザヤ書に問い直してみました。
口語訳聖書のイザヤ書で「目に見た」という語を検索
するとイザヤ書64章4節にこんな言葉を見つけました。
 
いにしえからこのかた、
あなたのほか神を待ち望む者に、
このような事を行われた神を聞いたことはなく、
耳に入れたこともなく、
目に見たこともない。
 
 
 

そんなわけで、イザヤが8章20節で語る朝の光を見たいと願うならば、
まずはtorahを第一とし、
そして、そうする中で私たちが経験を通して神さまを味わったことを忘れない、ということ以外ではあり得ないのだと考えるに至りました。
 
 
 
 
 
 
 
実はこのところずっと心身ともに悪い状態が続いておりました。絶望的な気分でした。
 
 
理由は、40年もの長きにわたり大切に読み続け、よりどころとしていた聖書が、人間の都合で改ざんされていたということを知ってしまったからです。
聖書は「原典において」誤りはないというだけであって、訳されたものは完全ではない、だからこそ改訳するのだとしても、底本に手を加えられてしまっているのではどうしようもありません。
どうしたらよいのか全く分からなくなってしまいました。
 
自分自身の生きる土台だけのことではなく、
これまでに自分が伝えてきた諸々がすべて間違っていたのではないかという恐怖がありました。
 
 
しかし、
それでも自分には否定できないことがあるということに気付きました。
それは、これまでの人生における「神懸かった」と言うしかない経験の数々です。

そして思いました。
torah(文字による教え)がもしも、誰かの悪意によって改ざんされるようなことがあったとしても
(正しく申し上げると、私が改ざんまたは悪意をもって訳された文章の存在に気付いたのは新約聖書と旧約の預言書であってモーセ5書ではないのですが、未知の、最悪の事態を仮定して書こうと思います)

torahを与えたもうた神さまを第一とし、
その神さまに祈り、
何か(teudah≒testimony, evidenceになり得るもの)が起こったのであれば、
しかも、それが一度や二度ではないとすれば、
それは現状自分が持つ、この3次元の世界で学習して獲得した「論理」による判断として、
たとえtorahの記述に誤りがあったりtorahの理解が万全でなかったとしても
そして、何十年もの間信じ続けていた福音的なキリスト教会で教わった様々なことが破綻したとしても

創造主はおられる。


私の心の中にふと一つのフレーズが思い浮かびました。

 そもそも「完全に正しい」のは創造主であるまことの神さまだけ



そして、ブレズレンの集会から落ちこぼれたときから気になり始めたイエスさまの言葉が思い出されました。


マタイによる福音書9章6~8節
 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。


マルコによる福音書5章18~20節
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。


ルカによる福音書14章1~4節
ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった


ヨハネによる福音書8章4~11節
 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕


ヨハネによる福音書11章43、44節
こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

イエスさまは、お弟子さんたち以外の人についてはみな家に帰らせているのですよね。
落ちこぼれが自己正当化するための屁理屈のように聞こえるかもしれませんが
「とにかくみなさん、まずは集会、教会に通いましょう」というクリスチャンが言いそうなことをイエスさまは語らないわけです。

もちろん、文化的な背景が違うからということで、聖書の世界に生きている人々にはそれで十分だったのかもしれないという話のかもしれませんが、

しかし、そうではなくて
聖書の世界に生きていようが生きていまいが、誰もがわかること、
聖書を開いて何章の何節に書いてあろうがなかろうが、
創造主が造られた身体を持っていれば感ずることのできる何か、人それぞれ異なるかもしれないけれどもそれぞれの人がそれぞれに感ずる何かを

3次元空間を歩まれたイエスさまという方は、人間に感じさせ、見せてくださっただけなのかもしれないと、落ちこぼれたあの日、思ったのです。
理屈ではない、自由で生き生きとした、晴れ渡った青空の下に緑があふれ動物が遊び笑顔があふれる地הארץ、創造の初めにכי טוב これは素晴らしい!完璧だ!と主が語られたあの時のワクワクした嬉しくてたまらない思いとはこういうことなのだよと、感じさせてくださっただけに違いない、と。


そして
彼は粛々とご自分のなすべきこと(神と人との断絶を終わらせること)を完了させて去って行かれた。

「尊い方は神おひとり」と言われたことを「あえて」思い返すならば
彼はひとりのラビとして歩まれ
新しい宗教が誕生することなど全く期待はしていなかった。


だとすれば 
改ざん、または誤訳された聖書云々の問題もそうですが
私がキリスト教に出会った当初に経験した「異端問題」をきっかけに40年間追い求めていた「正しいキリスト教、正しい教派」などというものは
そもそもこの世界のどこをさがしても見つかるはずはなかったのです。








マタイによる福音書13章24~30節
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。


 
そして
これだけは間違いないと信じて、教会を離れた後も一生懸命読み続けていた聖書自体に問題があると悟ったとき、アモス書8章11、12節を思い出しました。
主なる神は言われる、
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、
それはパンのききんではない、
水にかわくのでもない、
主の言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へさまよい歩き、
主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、
しかしこれを得ないであろう。

この言葉は自分にむけて書かれたものではない、まったく関係ないことだとずっと考えておりました。なぜなら私はクリスチャンだから!です。
そう、クリスチャンです!そう、私はクリスチャン!

しかし、自分の置かれた状況はまさにこれではないかと思い頭を抱えてしまったのです。
人の都合で改ざん、もしくは人の都合で変更されてしまった聖書
ならば、それをもとに「作られた」教理、教義
自分の根幹であったものは破綻してしまう。

破綻してしまったら「ワタシハクリスチャン」ですか?









混乱状態の中

そう、混乱と闇とはヘブライ語では同じ言葉で表現するわけですが

イザヤ書のイザヤが私に問いかけてくるのがわかりました。
「おまえは創造主を信じているのか?」
 

確かに、おまえにとってキリスト教信仰だと考えていたものが破綻してしまったのかもしれないが
「おまえは創造主を信じているのか?」


私は自分の脳に記憶されている二つのものを思いました。

一つは学べば学ぶほどに観察すれば観察するほどに知らされた
הארץの特殊性、そしてすばらしさ、被造物の不思議。
そしてもう一つは自分自身に与えられたteudahתעודה

 

זה הדרך לכו בו
「これが道だこれに歩め」

自分の歩むべき道הדרךがはっきりと見えたように思えました。
 
 
 
 

 








הללו יה

神さまのトーラーは永遠に変わらない
加えることも削ることもできない
神さまが見せてくださった事を私は心に刻んでいる
忘れることはない。
しっかりと心にとどめ、語り、賛美する
 
 
主の良くしてくださったことを私は忘れない
闇が私を囲んでも
必ず救い出してくださる。

あの時そうであったように
私の主には不可能なことはない
そして主はהארץに夜明けを来させてくださる

そして私たちは羊飼いをはっきりと知る

הללו יה