岩波新書「ユダヤ人とユダヤ教」市川裕 著を読んでいます。
しかし、読みながら考え込んでしまうことが少なからずあってなかなか読み終えることができません。
たとえば
81ページからの第2章「祈りの生活」という項に登場する「祝福」という言葉について、
82ページ8行目9行目のところから引用させていただくと、
(以下引用)
・・・雄鶏の鳴き声を聞いたら「雄鶏に理解力を与えた御方」を祝福し、服を着るときには「裸の者に衣服を着せる御方」を祝福する・・・
(引用ここまで)
こんな風に書いてあるのですが、
(どうやらユダヤ教では人間が神を祝福するらしい・・・
どういうことだろう???)
と、立ち止まってしまうわけです。
ユダヤ教徒の方からすればいったい私が何に困惑しているのかおわかりいただけないと思うのですが、
おそらくキリスト教徒の方ならば理解していただけるかと思います。
そう、クリスチャンは「神さまから祝福していただく」ことはあっても、
「神さまを祝福する」などということはないのです。
「などということはない」と書いたのは、心の中に「滅相もない!」という気分があるからです。
bless you!という言葉がありますが、
それも「神さまが」あなたを祝福してくださいますように、と祈っているのです。
祝福というスペシャルなものを神さまがあなたに与えてくださるように、と。
ま、誰かがくしゃみをしてこう言うときには深いことを考えてはおらず単なる反射ですけれども。
しかし、です。
どう言ったところでユダヤ教徒の方々は本家本元。
そんなことを思いながら、
ある日、別の本を読んでいたら
ユダヤ人イエスの福音―ヘブライ的背景から読む 河合 一充 著 ミルトス
183ページからのところに衝撃的なことが書かれていました。
「祝福」とは「賛美する」「たたえる」と同義であり、マタイ26章26節の「パンを取り、祝福して、裂いて弟子たちに与えた」というのは、
(以下引用)
ギリシア語原文には「祝福する」「裂く」「与える」という動詞に目的語がないので、多くの英訳聖書では翻訳者が動詞の後にit(それ)を追加して訳している。それで、英訳聖書を読んだ者は、イエスがパンを裂いて配ったばかりか、「パンを(←原文には傍点)祝福した」かのような印象を抱く。これはこの翻訳が招いたとんでもない誤解である。どこが間違いかというと「祝福するbless」のヘブライ語およびユダヤ教における意味を理解していない点である。
(引用ここまで)
😱
5000人給食の場面でもこれと同じような事情でパンを取って祝福したかのように書かれているため、クリスチャンは誤解をし、食物を祝福するという慣習が生じてしまったらしいのです。