食器棚にヘブライ語の創世記1章1節を書いた紙を貼りつけてあります。
2年前、日本語の聖書しか知らなかったころには、聖書を読むと、その都度「段落」が、「文」が、そしてそれぞれの「単語」が、自分の経験したことのある何がしかと、結び付けられるか置き換えられるか、ということを瞬間的に考えて、「わかった」「理解できた」と思っていました。
たとえば、創世記1章1節を読んだときには、
はじめに神は天と地とを創造された。
「はじめに」と書いてあったら「終わりではなく最初のあたりに」
「神は」と書いてあったら「目には見えないけれど何かパワーを持った存在は」
「天と地を」と書いてあったら「空と大地を」
「創造された」と書いてあったら「誰も作ったことのないものを初めて作った」
という具合。
自分なりの言い換え、言葉の置き換え、辞書的な理解
で、ストーリーの流れを追っていく。
なんとかという名前の人が登場して、その人が何をやってどうなった、それを知る、そういう読み方をしていました。
で、わからない「ことば」に出会ったら、辞典を見るか注解書を見るか。
注解書を見るあたりで、「かなり勉強した、理解できた」という気分になって、「あとは実生活にどう適用していくか」と考えていました。
が、ヘブライ語を眺めるようになって1か月もたたずに気付いたのは、
ヘブライ語聖書は、日本語の単語を対応させただけでは翻訳しきれない部分を持っているということです。
「そりゃあなた、古代の言語としてまだまだ未知の部分があるのだから訳しきれないでしょう」
と言われるかもしれませんが、私の言いたいのはそういうことではないのです。
今朝も台所で「創世記1章1節」のヘブライ語を眺めていて、
もう2年間もこの一文を毎日毎日眺めて台所仕事を続けているのですが、
文字を眺めていて「今朝」思いついたことは、
(シャマイムって、シェムが入ってるんだ。え、シェムって一文字足したらシャマァ、シェマァだわ。あ、それに、シュムでもあるんだ。)ということでした。
そういうようなことを見るたびにいろいろ思わされるわけです。
【今朝の私の脳内】
シャマイムとはשָׁמַיִם
で、シェムとはשֵׁם
そして、シャマァとはשָׁמַע
そしてシュムは
שֻׁם
シャマイムというのは日本語では「天」と訳されています。
その単語の中に別の単語が入っているのが見えるわけです。
シェムとは、ノアの息子の「セム」のことです。
シャマァは「聞きなさいイスラエル」でおなじみの「聞く」という意味の言葉です。
シュムはエズラ記5章1節に出てくる神さまの「お名前」という意味の言葉です。
つまり、です、私たちが日本語の聖書で「天」と読んだ場合、自分の良く知る天を思い浮かべることはできますが
「天」という言葉を眺めた瞬間に「セム」だの「聞く」だの「名前」だのという言葉は絶対に思い浮かぶはずはない、ということです。
それが良いとか悪いとか優れているとか劣っているとかそういう評価をしようとしているのではなく、
何度も何度も聖書を読んで「同じものを読んでいるつもり」「よくわかったつもり」でいたとしても
不完全でズレている可能性がある、もしくは、ヘブライ語聖書を読んでいる人々と私たち翻訳聖書を読んでいる人々とは同じ箇所を読んでいても共通の理解を得てはいないのではないか、ということです。
だいたい、シェムをセムと書いてしまっている段階でとんでもないことです。
学術的にはそれでいいということなのかもしれませんが、ヘブライ語において「sh」の音と「s」の音のあらわすものは真逆のような違いがあります。
例えば「s」の音をもつ単語にはこんなものがあります。
セクשֵׂךְ 棘(とげ)
サタンשָׂטָן サタン
一方、「sh」の音を持つ単語にはこんなものがあります。
משֶׁה Strong's Hebrew 4872 Mosheh モシェ モーセのことです。
שְׁלמֹה Strong's Hebrew 8010 Shelomoh シェロモ ソロモンのことです。
יְרוּשָׁלַם Strong's Hebrew 3389 Yerushalaim or Yerushalayim イェルシャライム エルサレムのことです。
שְׁאֵרִיתStrong's Hebrew 7611 sheerith シェリト 残りの者のことです。
שָׁאַרStrong's Hebrew 7604 シャアル 残るという意味の言葉です。
ただ、予想と違う、というか、あれ??というものもあります。
イサクはיִצְחָק Yitschaq イィツァあク
聖書に書いてある通り、笑うという単語צְחַק tsachaq ツァあク から来た名前です。
(ヘットחの咽頭無声摩擦音の記号chのところをひらがな表記にしてあります。ヘットחの発音はドイツ語のchの音と同じだと思います。たぶん)
ヨセフは「s」音で、 יוֹסֵף Yoseph ヨセフ
増し加わるという単語יָסַף ヤサフ から来た名前です。
そして、黄泉のことは שְׁאוֹל シェオル
そしてサスまたはスィスは喜び שׂוּשׂ
こういうことを意識するようになると
たとえば、日本語の聖書で創世記36章8節を読んだとき
ヘブライ語のことなど全く考えなかったころとは違うイメージや疑問を心の中に抱くようになるはずです。
エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
創世記36章8節
おそらく、これまでは「エサウ」って誰だっけ?「セイルの山地」って地図上でどのあたり?ということだけが気になって、注解書だとか辞典で調べる、とか、なるほどエサウとはエドムのことでセイルの山地に住んでいるんだ、と事実を確認して「良し!覚えたぞ!」と言って終わりにしていたものが、
エサウのサ、セイルのセはどっち?・・・と思ったり、
この人はアレだからあっちか???・・・と思ったり、
そんな些細なことですが、とても新鮮な気分で聖書が読めます(笑)
創世記36章8節のエサウとセイル、ヘブライ語聖書にはこう書いてあります。
エサウ עֵשָׂו
セイル שֵׂעִיר
で、本当は「sh」も「s」も同じשという文字を使って表記されますが、
「sh」はשׁ
「s」はשׂ
という具合に、ヘブライ語の読みやすくするための記号(点・)「ニクダー」をつけてくださっているようです。
「sh」音の点は文字の右上「s」音の点は文字の左上につけてあるのを見ると
やっぱり救いは「神の右の手」によるからかな?とか勝手に思い込んでいます。
ちなみに、「s」音はשだけでなく、上のヨセフのようにס(サメフ)という文字を使うこともあります。同じ音でも表記が変わるのは、時代による変化だったりいろいろな理由がありそうです。
聖書を一節一節全文書き取りするにあたって、私はヘブライ語の読み方の記号「ニクダー」は老眼で見えにくいのともともと雑な性格なので、ほとんど書き写さないのですがשがשׁなのかשׂなのか、という区別だけはどうしたことか最初の最初から書き写していておりました。
少し経って読み方に多少興味を持ってきたころ(最初はまったく興味がなかった)「sh」と「s」の音の違いと意味の違いに気付き、無意識ながらも付けておいてよかった~!と思ったという経験があります。
強制でもなく、せかされることもなくパズルゲームのように文字を眺めているのはとても楽しいことです。
モシェがもらった石の板にはどんな文字が刻まれていたんだろう、
きっと見ればわかる文字だったに違いない、
(だから、当初音読の仕方にまったく興味がなかったのですが)
だったらきっと私も眺めるだけでも何かわかるに違いない!
そんな気分でヘブライ語を眺めています。