2022年4月14日木曜日

【調べ学習】右と左という意味のヘブライ語

 日本語の聖書を読んでいていつも気になっていたのは神さまの右の手という言葉です。

 

 

主よ、あなたの右の手は力に輝く。
主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
出エジプト記15章6節(聖書協会共同訳)

右の手ということではなくとも、羊は右で山羊は左という話があったり、

イエスさまはどこにお座りになっているのかと言えば
父なる神の右ということで

「右」というものはなにか特別な感じがします。

上の出エジプト記15章6節の「右の手」という言葉は

יָמִין Strong's Hebrew 3225 ヤミンです。

 

あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。創世記13章9節(聖書協会共同訳)


創世記13章のアブラハムとロトの話、右に行くか左に行くかという話ではロトが右に行ったような気がしますが、単なる「右」ではなく、「右を選んで行く」という単語もあって、それは

 

יָמַן Strong's Hebrew 3231 ヤマンです。

 

イザヤ書の30章21節の

 

あなたが右に行くときも、左に行くときも
あなたの耳は、背後から
「これが道だ、ここを歩け」と語る言葉を聞く。(聖書協会共同訳)



 

に登場する「右に行く」は

 אָמַן Strong's Hebrew 541 アマンです。

ちなみにアーメンはアマンと同じ文字列です。

אָמֵן Strong's Hebrew 543

そういえば、英語で右のことをrightといいますが、rightとは右であると同時に、正しいという意味でもありますよね。何か関係があるのでしょうか。

 

ヤマン、アマン、アーメン

これらに共通して含まれている文字列は

מן Strong's Hebrew 4478 天から降ってきた「マナ」です。what?でもありますが。

 

 

 

 

じゃあ左は?

創世記13章9節
あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。」

という御言葉で調べてみると「左」は

 שְׂמֹאול Strong's Hebrew 8040 セモル

 

「左に行こう=左を選んで行く」のは

שָׂמַאל Strong's Hebrew 8041 スィモル

イザヤ書30章21節の「左に行く」も創世記13章と同じスィモルが使われています。

(シshiではなくスィsiという発音です。・・・書きながら、シボレト問題を思い出しました。)

 

レビ記14章15,16,26,27節に出てくる「左」は

שְׂמָאִלי Strong's Hebrew 8042 セマリ

 

 

2022年4月13日水曜日

【調べ学習】s音とsh音は大違い

食器棚にヘブライ語の創世記1章1節を書いた紙を貼りつけてあります。


2年前、日本語の聖書しか知らなかったころには、聖書を読むと、その都度「段落」が、「文」が、そしてそれぞれの「単語」が、自分の経験したことのある何がしかと、結び付けられるか置き換えられるか、ということを瞬間的に考えて、「わかった」「理解できた」と思っていました。
たとえば、創世記1章1節を読んだときには、

はじめに神は天と地とを創造された。

「はじめに」と書いてあったら「終わりではなく最初のあたりに」
「神は」と書いてあったら「目には見えないけれど何かパワーを持った存在は」
「天と地を」と書いてあったら「空と大地を」
「創造された」と書いてあったら「誰も作ったことのないものを初めて作った」

という具合。

自分なりの言い換え、言葉の置き換え、辞書的な理解
で、ストーリーの流れを追っていく。
なんとかという名前の人が登場して、その人が何をやってどうなった、それを知る、そういう読み方をしていました。
で、わからない「ことば」に出会ったら、辞典を見るか注解書を見るか。

注解書を見るあたりで、「かなり勉強した、理解できた」という気分になって、「あとは実生活にどう適用していくか」と考えていました。

が、ヘブライ語を眺めるようになって1か月もたたずに気付いたのは、
ヘブライ語聖書は、日本語の単語を対応させただけでは翻訳しきれない部分を持っているということです。

「そりゃあなた、古代の言語としてまだまだ未知の部分があるのだから訳しきれないでしょう」

と言われるかもしれませんが、私の言いたいのはそういうことではないのです。

今朝も台所で「創世記1章1節」のヘブライ語を眺めていて、
もう2年間もこの一文を毎日毎日眺めて台所仕事を続けているのですが、
文字を眺めていて「今朝」思いついたことは、
(シャマイムって、シェムが入ってるんだ。え、シェムって一文字足したらシャマァ、シェマァだわ。あ、それに、シュムでもあるんだ。)ということでした。
そういうようなことを見るたびにいろいろ思わされるわけです。

【今朝の私の脳内】 

シャマイムとはשָׁמַיִם

で、シェムとはשֵׁם

そして、シャマァとはשָׁמַע
そしてシュムはשֻׁם
 


シャマイムというのは日本語では「天」と訳されています。
その単語の中に別の単語が入っているのが見えるわけです。
シェムとは、ノアの息子の「セム」のことです。
シャマァは「聞きなさいイスラエル」でおなじみの「聞く」という意味の言葉です。
シュムはエズラ記5章1節に出てくる神さまの「お名前」という意味の言葉です。
 
 
つまり、です、私たちが日本語の聖書で「天」と読んだ場合、自分の良く知る天を思い浮かべることはできますが
「天」という言葉を眺めた瞬間に「セム」だの「聞く」だの「名前」だのという言葉は絶対に思い浮かぶはずはない、ということです。
 
 
それが良いとか悪いとか優れているとか劣っているとかそういう評価をしようとしているのではなく、
 
何度も何度も聖書を読んで「同じものを読んでいるつもり」「よくわかったつもり」でいたとしても
不完全でズレている可能性がある、もしくは、ヘブライ語聖書を読んでいる人々と私たち翻訳聖書を読んでいる人々とは同じ箇所を読んでいても共通の理解を得てはいないのではないか、ということです。
 
 
 
だいたい、シェムをセムと書いてしまっている段階でとんでもないことです。
学術的にはそれでいいということなのかもしれませんが、ヘブライ語において「sh」の音と「s」の音のあらわすものは真逆のような違いがあります。

例えば「s」の音をもつ単語にはこんなものがあります。
セクשֵׂךְ 棘(とげ)
サタンשָׂטָן サタン
 

一方、「sh」の音を持つ単語にはこんなものがあります。 

משֶׁה Strong's Hebrew 4872 Mosheh モシェ モーセのことです。

שְׁלמֹה Strong's Hebrew 8010 Shelomoh シェロモ ソロモンのことです。
 
 
יְרוּשָׁלַם Strong's Hebrew 3389 Yerushalaim or Yerushalayim イェルシャライム エルサレムのことです。
 
שְׁאֵרִיתStrong's Hebrew 7611 sheerith シェリト 残りの者のことです。
שָׁאַרStrong's Hebrew 7604 シャアル 残るという意味の言葉です。
 
 
 
 
 
ただ、予想と違う、というか、あれ??というものもあります。
イサクはיִצְחָק Yitschaq イィツァあ
聖書に書いてある通り、笑うという単語צְחַק tsachaq ツァあク から来た名前です。
(ヘットחの咽頭無声摩擦音の記号chのところをひらがな表記にしてあります。ヘットחの発音はドイツ語のchの音と同じだと思います。たぶん)
 
ヨセフは「s」音で、 יוֹסֵף Yoseph  ヨ
増し加わるという単語יָסַף ヤフ から来た名前です。
 
そして、黄泉のことは שְׁאוֹל シェオル
そしてスまたはスィスは喜び שׂוּשׂ
 
 
 
 
 
 
こういうことを意識するようになると
たとえば、日本語の聖書で創世記36章8節を読んだとき
ヘブライ語のことなど全く考えなかったころとは違うイメージや疑問を心の中に抱くようになるはずです。
 
エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
創世記36章8節
おそらく、これまでは「エサウ」って誰だっけ?「セイルの山地」って地図上でどのあたり?ということだけが気になって、注解書だとか辞典で調べる、とか、なるほどエサウとはエドムのことでセイルの山地に住んでいるんだ、と事実を確認して「良し!覚えたぞ!」と言って終わりにしていたものが、
エサウのサ、セイルのセはどっち?・・・と思ったり、
この人はアレだからあっちか???・・・と思ったり、
そんな些細なことですが、とても新鮮な気分で聖書が読めます(笑)
 
 
創世記36章8節のエサウとセイル、ヘブライ語聖書にはこう書いてあります。
 עֵשָׂו 
イル שֵׂעִיר 
 
 
 
で、本当は「sh」も「s」も同じשという文字を使って表記されますが、
 
「sh」は 
「s」は
という具合に、ヘブライ語の読みやすくするための記号(点・)「ニクダー」をつけてくださっているようです。
  
「sh」音の点は文字の右上「s」音の点は文字の左上につけてあるのを見ると
やっぱり救いは「神の右の手」によるからかな?とか勝手に思い込んでいます。

ちなみに、「s」音はשだけでなく、上のヨセフのようにס(サメフ)という文字を使うこともあります。同じ音でも表記が変わるのは、時代による変化だったりいろいろな理由がありそうです。
 
 
聖書を一節一節全文書き取りするにあたって、私はヘブライ語の読み方の記号「ニクダー」は老眼で見えにくいのともともと雑な性格なので、ほとんど書き写さないのですがשなのかなのか、という区別だけはどうしたことか最初の最初から書き写していておりました。
少し経って読み方に多少興味を持ってきたころ(最初はまったく興味がなかった)「sh」と「s」の音の違いと意味の違いに気付き、無意識ながらも付けておいてよかった~!と思ったという経験があります。
 
強制でもなく、せかされることもなくパズルゲームのように文字を眺めているのはとても楽しいことです。
モシェがもらった石の板にはどんな文字が刻まれていたんだろう、
きっと見ればわかる文字だったに違いない、
(だから、当初音読の仕方にまったく興味がなかったのですが)
だったらきっと私も眺めるだけでも何かわかるに違いない!
そんな気分でヘブライ語を眺めています。

2022年4月12日火曜日

【調べ学習】悔いているのか、いないのか

神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
コリント人への第二の手紙7章10節(口語訳)

 

 

今日はⅡコリ7:10をコンコルダンス等で調べます。

怖さと恥ずかしさで誰にも言えませんでしたが、40年前から何度読んでもわからなかった箇所です(笑)
まあ、前からの流れを読みとれば言いたいことをつかめないこともないし、パウロの言葉はトーラーの注解なのだ、と考えればそれほど深刻にならなくても?よいのですが、「悔いのない救を得させる悔改め」という日本語、わかりにくすぎやしませんか?

口語訳はきっと古いからわかりにくい日本語なんだわ、と思って聖書協会共同訳聖書を開いてみましたが、

 

神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。

(;´Д`A ```

 

「神の御心に適った悲しみ」は「救いに至る悔い改めを生じさせ」るということはわかるのですが、「悔いのない」という語はどこにかかるのでしょう。口語訳から聖書協会共同訳となり、変更されたのは「悔いのない」という言葉の後の「、」です。ここに「、」が付いたということは「悔いのない救い」と読んではいけないということでしょうか?
だとすると「悔いのない」は「救いに至る悔い改め」にかかるということですか?

「救いに至る悔い改め」という言葉は「悔い改め」という行為が「救いに至らせるもの」であることの説明で・・・「救いに至る」は「悔い改め」を修飾しているわけですよね?・・・じゃあ修飾語をそぎ落として骨組みだけ残したら「悔いのない悔い改め」になっちゃいますよね・・・

悔いのない救いであっても悔いのない悔い改めであっても良いですが・・・

・・・いや、全然良くないですよ。意味わからない。

 

なので、まずギリシャ語を調べました。
「悔い改め」はStrong's Greek 3341 μετάνοιαですが、
これは「悔い改め」ですから、クリスチャンとして意味は分かります。
問題は「悔いのない」と日本語に訳し続けられている言葉です。

 

「悔いのない」に該当するギリシャ語は
 Strong's Greek 278  ἀμεταμέλητος

これはStrong's Greek 1のα
Strong's Greek 3338のμεταμέλομαι

が合わさってできた言葉で、ギリシャ語ではαを頭につけると否定の意味を表すそうです。
というわけで、μεταμέλομαιに後悔するという意味があって、そこに否定するαがついているので「後悔しない(悔いのない)」という意味になると。

 

で、Strong's Greek 278は新約聖書の中では二箇所に登場していて、

ひとつがこの第二コリント7章10節で、もうひとつはローマ11章29節でした。

 

神の賜物と召しとは、変えられることがない。
ローマ人への手紙11章29節(口語訳)

 

「変えられることがない」と訳されている部分がStrong's Greek 278です。

わずか二箇所しかないのに「悔いのない」と「変えられることがない」と訳し分けられている。
ならば「変えられることがない」という言葉をコリントの方に代入してみましょうか。
「神の御心に適った悲しみは、変えられることがない、救いに至る悔い改めを生じさせ」

(。´・ω・)ん?こっちの方がしっくりくる感じですが、「悔いのない」にこだわる理由が何かあるのかもしれません。

 

よくわからないのでもう少し掘り進めて見ましょう。(笑)

ἀμεταμέλητοςはαとμεταμέλομαιだということなので、

μεταμέλομαι

について調べます。

Strong's Greek 3338のμεταμέλομαι

これは、新約聖書に6回登場します。

聖書協会共同訳聖書から該当箇所を引用してみます。

 

兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
マタイによる福音書21章29節

 

  

なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
マタイによる福音書21章32節

 

 

その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
マタイによる福音書27章3節

 

 

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、
コリントの信徒への手紙二7章8節

 

 

この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方にこう言われました。
「主は誓われた。その御心を変えられることはない。あなたこそ、永遠に祭司である。」
ヘブライ人への手紙7章21節

 

 

マタイ21章の「後で考え直す」という言葉は、後で考え直して神さまに従うという行動に至る話です。
とはいうものの、マタイ27章のユダの「後悔」という言葉について、クリスチャンはマタイ21章のそれとは異なり、ユダは救われていないと学んでいます。ユダの後悔は認められない!あいつは駄目だ!ということになっている。
でも、ユダの「後悔」は21章29節と32節で使われているのと同じ単語のようです。

そして、Ⅱコリント7章、後悔するのしないのという話がいっぱいでややこしいわけですが、
ヘブライ人への手紙7章21節、よいものが登場しました、旧約からの引用です。ここから大元の言葉に到達できそうです!

 

ヘブライ7章21節の出典はこれのようです。

主は誓い、悔いることはない。「あなたは、メルキゼデクに連なるとこしえの祭司。」
詩編110編4節

 

神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言ったことを、行わないことがあろうか。告げたことを、成し遂げないことがあろうか。
民数記23章19節

 

 Strong's Hebrew 5162 נָחַם

nachamという言葉だそうです。

「悔いる」だけではなく「慰め」と訳されている箇所もあります。

 

イサクは、母サラの天幕に彼女を入れた。彼はリベカをめとり、妻となった彼女を愛した。こうしてイサクは、母の死後、慰めを得た。
創世記24章67節

 

 

ちなみに、このנָחַםという単語からםが取れるとノアの箱舟でおなじみの「ノア」の綴りになります。

なぜノアを登場させたのかというと、ちょっと気になることがあったからで、

 

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
創世記6章5,6節(聖書協会共同訳)


創世記6章6節の「悔やみ」という語もStrong's Hebrew 5162 נָחַםです。

日本語聖書を読むと、ある個所では神さまは悔いることはないと言っているのに、別の箇所では悔やんでいらっしゃる。

ちなみに、創世記6章6節の「悔やみ」の後の「心を痛められた」というところは
日本語だとこの二つの言葉はほぼ同じような意味に感じますが、ヘブライ語ではまったく別の表現で

ויתעצב אל לבו
と書いてあって、עָצַבは「嘆き悲しむ」
לֵבが「心」

で、「心を痛められた」と訳されています。

 

Strong's Hebrew 5162 נָחַםとは私たち日本人が思うような「後悔」という言葉なのでしょうか。