2019年10月1日火曜日

神さまのつくられたルールとシステムのなかで

新共同訳聖書を読むようになり、詩編19編の真ん中に「律法」という文字があることを知りました。

 

私は新改訳聖書を使っている教会や集会に通っておりましたので、長い間その部分には「みおしえ」という言葉がありました。

 

「律法」だって「みおしえ」だってどっちだっていいじゃないか、と言われるかもしれませんが、
詩編で言うと
詩編19編8節だけではなく詩編94編12節もそうですし、
119編 なんて1節、18節、29節、34節、44節、51節、53節、55節、61節、70節、72節、77節、85節、92節、97節、109節、113節、126節、136節、142節、150節、153節、163節、165節、174節
こんなに大量にתּוֹרָהTorahがあったのです。
תּוֹרָהTorahתּוֹרָהTorahなのに「律法」と訳さないで「みおしえ」や「おしえ」というごく一般的な名詞で書かれていた場合
かなり話が変わってしまうと思うのは私だけでしょうか?
もちろん、説教をされる先生方がしっかり解説してくださる教会に所属しているならばそういう聖書を読んでいてもよいのかもしれません。しかし、私はそうではなかったので詩編で見つけた「律法」という言葉には本当にショックでした。
だいたい、律法と言えばガッチガチにしめ上げるルールだと思っていましたし、よくないものだと思っておりました。頭に残っている言葉は「律法学者」に「律法主義」。しかも既に律法は終わったと思っているわけです。なのでダビデが詩編119編の1節2節で
いかに幸いなことでしょう
まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう
主の定めを守り
心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
詩編119編1節2節

と「別の聖書を読んでいる人たちには」言っていたのだと知った時には大変にショックでした。

だって私にダビデは20年間こう言っていたのです。

幸いなことよ。
全き道を行く人々、
主のみおしえによって歩む人々。
幸いなことよ。主のさとしを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。
詩篇119篇1節2節(新改訳聖書)
だいたい「主の律法に歩む」ってどうすればいいのですか?律法は守らなくていいんでしょ?
ダビデがずっとみおしえだって言ってたから
「そうか、みおしえか、みおしえって言うのは聖書のことば全部ね。」
と20年もの間脳内で変換していたわけです。もちろん、新約は旧約の注解のようなものですからそれはそれでいいかもしれませんが、教理も教義も「みおしえ」だと思っていました。
だからこそ律法は守らなくてよかったはずなのです。なのに「律法」って・・・


だからほかの聖書なんて読まない方がいいし?余計な知識はない方がいい?ですか?余計なことを知れば悩みが増えるから?
ってそう思いますか?

原典において誤りがないという教えを通り越して自分の聖書が絶対だと思っていた私にとって、本当に衝撃ではありましたが、自分としては気付いてよかったと思っています。
そのことによってתּוֹרָהTorah律法という訳語について自分がかなり間違った認識を持っていたということに気付きましたから。
もっとも、これはとても不思議なことでありますが、ちょうどそのタイミングで聖書の原典に何が書かれているのかということについて興味を持たせてくださる方がWeb上におられ、いろいろなことを教えていただきまして
本当に目が開かれた、目からうろこが落ちた、そういう思いがしました。

・・・神さまの御心、神さまの「時」であったのかもしれない、と今では思っております。


さて、話を戻します。今日は詩編19編について書こうと思っていたのです。
実は詩編19編という箇所は、新改訳聖書を読んでいた頃にはよくわからなかったのだけれど「律法」という訳語を得たことによって以前よりも理解が深まったと思えた箇所なのです。この記事の最初に書いた「詩編19編の真ん中に「律法」という文字」これを手掛かりにして読むと「みおしえ」という訳語では得られなかった理解が得られるような気が「私」個人としてはしています。


天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
太陽は、花婿が天蓋から出るように
勇士が喜び勇んで道を走るように
天の果てを出で立ち
天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
詩編19編2節~7節(新共同訳)

主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。
主への畏れは清く、いつまでも続き
主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
あなたの僕はそれらのことを熟慮し
それらを守って大きな報いを受けます。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。
どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
詩編19編8節~15節(新共同訳)


詩編19編を前半と後半に分けて引用しました。
前半と後半と書きましたが、私がずっとわからなかったのは、この詩は一つである必要があるのだろうか、ということです。
二つに分けてもそれぞれ完結しているものがなぜ一つになっているのだろう、と思うわけです。
しかし、作者ダビデとしてはこれは一つの詩であると考えている、なぜ?
一つであるとすれば前半と後半には共通する大きなテーマが貫かれているはずです。それはいったい何だろう。

「神さまの素晴らしさ」?

そんな大きすぎることを言ったら、詩編全体が一つになってしまいます。

しかし、後半部分の一行目が「主のみおしえは完全で」だと信じ切っていた時代が過ぎ去り
「主の律法は完全で」と読んだ瞬間ひらめきました。
ルール、規則!

聖書を信仰の書として読む私たちがけっこう忘れがちなこととして、ダビデ王はいったいいつごろ王さまだったのか、ということがあります。あの方は紀元前10世紀ごろに王さまだった方です。
紀元前10世紀です!私たちは21世紀に生きていますがダビデは大昔の人です!
どんなに偉くてもどんなにすごくても紀元前10世紀の人は日本で言えば縄文時代の人です。電気もないしパソコンもない紀元前10世紀の人です。
その人がどういう状況でどういう思いで前半の詩を書いたのかということを想像しますと、
おそらく彼はまいにちただひたすら天の現象の観察をしていたのです。面白いなーとか不思議だなーとか考えつつ空を眺めているのです。そして
「ああ空があるよ、雲があるよ、暗い夜があって明るい昼があるんだよ。太陽がね動いていくんだよ毎日ね、天の果てから嬉しそうに飛び出してくるんだよ、そして反対側の天の果て目指していくんだよ。神さまがお造りになられたすべてのものは神さまのルールに従ってるんだ!そして太陽は私たちを照らしている。神さまが造られた明るく熱い光」

ダビデは空を見上げながら創造主である神さまが決められたルール、法則というか秩序というか規則正しさの美しさ完璧さを見いだしたのではないでしょうか。
同じように神さまに造られた人間としてダビデは「主の律法」תּוֹרָהTorahについて思考した・・・
「そう、神さまが大空にそして世界に与えてくださったルールは完璧なんだよ!
神さまが私たちに守るように言われたתּוֹרָהTorahは完璧なんだ!生きるためにתּוֹרָהTorahは不可欠なんだ。תּוֹרָהTorah知り守ることによって知恵が与えられるんだよ。
太陽が天の果てに一直線、喜び勇んで走っていくように、תּוֹרָהTorahに従えば間違うことはない!私たちだって間違うことなくまっすぐに喜びながら歩んでいける!」



21世紀。
私たちはダビデの時代よりも神さまのつくられたルールとシステムの素晴らしさを知っています。
健康診断でいろいろな数値を知らされますが、通常の状態ではその数値以内におさまり続けている恒常性というシステムの素晴らしさ。
放射線や化学物質でDNAが傷ついても神さまがお造りになられたシステムとルールに従って回復させることのできる素晴らしさ。
プレートテクトニクスという安定した地球環境を保つためのシステムの素晴らしさ。

しかしそれでも神さまに気付かず神さまを見失いתּוֹרָהTorahを捨て
滅びに向かう人類。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の逆を行く世界。
ああ。



【調べ学習】信頼できる大きな岩について、そしてエクレシアという言葉の問題 

詩編18編でダビデが神さまのことを信頼できる大きな岩であると考えていたというところから、
主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
詩編18編3節
聖書に登場する「岩」という語句について今日は調べてみることにしました。
引用聖句は新共同訳聖書です。


まず、ダビデが語るような「神こそが岩」という表現がどこから始まっているのかという観点をもっていつものように語句検索をしてみると、申命記32章(モーセの歌)にこういうみことばがありました。


主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節

このみことばで使われている「岩」はヘブライ語で
צוּר tsur

この言葉は出エジプト記17章に登場するホレブの「岩」に使われている言葉と一緒です。



見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
出エジプト記17章6節

詩編18編の
「主はわたしの岩」に使われているヘブライ語は
סֶלַע sela

ですが、民数記20章8節の「岩」もこのselaという言葉が使われていたので
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」

民数記20章8節の「岩」と、出エジプト記17章6節の「岩」は同じ話の中での岩ですから、ほぼ同じ意味と考えていいのかなあと思いましたが、

詩編18編の「わたしの神、大岩、避けどころ」の「大岩」という言葉に使われているのは
צוּר tsur
で、日本語の聖書の訳語から違いを見ると岩と大岩なので大きさの違いなのかしら、と思うわけですが、

סֶלַע selaの方は
Strong's Concordanceで見てみると
a crag(ごつごつの岩,険しい岩山), cliff(崖)
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはcliff (4), cliffs (4), crag (2), crags (3), mountain* (1), Rock (1), rock (39), rocks (4), rocky (1), Sela (1)だと書いてありました。
で、Strong's Exhaustive Concordanceによると
ragged rock, stony, strong holdとあり、
raggedとか言うと、なんとなくボロボロな感じがしてしまいますけれども(私個人のイメージでしょうか)
ボロボロなのではなく「ごつごつの,でこぼこの,ぎざぎざの」という意味のようです。
stonyは石が多い?そしてstrong holdは「要塞」という意味だそうです。



צוּר tsurの方は
Strong's Concordanceで見てみるとrock(岩), cliff(崖)で、
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはRock (10), rock (54), rocks (7), rocky (1), stones (1), strength (1)だと書いてありました。
Strong's Exhaustive Concordanceには
edge, mighty God one, rock, sharp, stone, strength, strongとあり
edgeやsharpは鋭い?イメージがあるということなのでしょうか
そしてmighty God は力強い神さま、strength, strongという訳も力強そうです。
そういう意味とともにrockとstoneが出ている・・・。


ちなみに、聖書協会共同訳聖書でも新共同訳と同じように「岩」「大岩」と訳されています。


運動が苦手で体幹のしっかりしていない私の個人的な興味としては
詩編40編3節にあるような「岩」の場合、どんな単語が使われているのかということがありましたので調べてみましたが

滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
詩編40編3節


ここにある「岩」という言葉にはסֶלַע selaが使われていました。





さて、
神さまが岩であると語っているのはダビデだけのことではなく
イザヤ書26章4節にも
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
ハバクク書1章12節でも
岩なる神よ、
とあります。

イザヤ書ではほかに
恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
イザヤ書44章8節
とあり、主ご自身がご自身を「岩」と表現しておられる箇所もあります。

ただ、間違ってはいけないのは、「岩」は神さまではないということです。(当然!)
イスラエルの地勢というか地形というか地質というか、行ったことがないのでよくわかりませんけれど(;^_^A ・・・そういうあたりからの比喩でしょう。
そのあたりの人々の共通理解?として「依り頼むもの」を「岩」と表現しているのだろうと思います。根拠となるみことばを引用しておきます。

しかし、彼らの岩は我々の岩に及ばない。我々の敵もそのことは認めている。
申命記32章31節

主は言われる。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。申命記32章37節
ちなみに、この申命記32章の「岩」についてはすべて
צוּר tsur
が使われています。

しかし、いずれにしても、みことばをたどって確認するとやはりすべての大元は תּוֹרָהTorahにありそうでした。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節

そして、当然のことですが「岩」という物体が神なのではなく、
イエスさまがマタイによる福音書やルカによる福音書で語られた

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
マタイによる福音書7章24節、25節

それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
ルカによる福音書6章48節



この意味における「岩」なのだと思います。
何を自分の土台(基礎)部分とするのか、自分はどこに立つのか、
そういう意味での「岩」。
頑丈で崩れることのない、全人生をかけて信ずるに足る、自分の心からも身体からもすべてから力を抜き去って委ねることのできる、依り頼むのにふさわしい「岩」
それが聖書の神さまである、そういう事だと思います。





また、

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
出エジプト記17章6節
神さまの奇蹟が岩から起こり、水が岩から湧き出たというイスラエルの実体験が、岩を見るたびに思い起こされ、その奇蹟は繰り返し繰り返し語られるのです。


荒れ野では岩を開き
深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
詩編78編15節

主が岩を開かれると、水がほとばしり
大河となって、乾いた地を流れた。
詩編105編 41節

岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
詩編114編8節

炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
申命記8章15節

彼らが飢えれば、天からパンを恵み
渇けば、岩から水を湧き出させ
必ず与えると誓われた土地に行って
それを所有せよと命じられた。
ネヘミヤ記9章15節

主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも
彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
イザヤ書48章21節







ところで、
ここまで書いてきてふと思ったことがあります。


わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
マタイによる福音書16章18節
イエスさまは、ほんとうにこんなふうにおっしゃったのだろうか・・・

マタイによる福音書16章のこの辺りのこと(ペトロの信仰告白)はマルコによる福音書8章27~30節とルカによる福音書9章18~21節にもあるのですが
そこにはマタイによる福音書16章18節のような部分はありません。

ヨハネによる福音書では1章でいきなりケファと呼ぶという話が出てくるのですが、
そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
ヨハネによる福音書1章42節
ここもペトロの信仰告白に絡んで出てくる話なのでとにかくそのタイミングでイエスさまがシモンにアラム語でケファ(岩)という愛称をつけたのでしょう。
ヨハネはそれ以上のことには言及していません。
Κηφᾶς Képhas という言葉は新約聖書には9回登場するようです。ヨハネによる福音書に1回、コリントの信徒への手紙一に4回、ガラテヤの信徒への手紙に4回。
ただ、ケファは岩には違いないのですが、
「ケファ」と呼んでいるパウロの話を聞いていると


わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
コリントの信徒への手紙一9章5節
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
ガラテヤの信徒への手紙1章18節
また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
ガラテヤの信徒への手紙2章9節
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
ガラテヤの信徒への手紙2章11節~13節
ケファさんの相変わらず・・・な感じが…まあ、パウロ先生も…人間らしい方ですが・・・
(;´Д`A ```

ケファという単語ではなく教会(エクレシア)という単語に注目してみても
Strong's Greek 1577 ἐκκλησία エクレシアは新約聖書中に114回登場しますが、
福音書ではこの「この岩の上にわたしの教会を建てる」とイエスさまがおっしゃったというマタイの16章18節に1回と、マタイ18章17節の「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」という計3回登場するだけで、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書には登場しません。そして使徒言行録に23回、以降、書簡には何度も登場するので新約聖書におけるエクレシアの登場回数は合計114回という事になるわけですが
このようなことを考えたとき、
このマタイによる福音書に書かれている3回の「エクレシア」という語は何かの間違いではないか、と思えてくるのです。