2018年10月3日水曜日

言(ことば)は神であった、ので (2)

あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
ヨブ記41章2節(新共同訳)



これ以上ない苦しみの中で
神さまのみ言葉を耳にしたヨブ。
そしてヨブは、神さまにはすべてがおできになり、どんな計画も成し遂げることが出来るということ、「御旨の成就を妨げることはできない」と悟った、と告白します。

ヨブの言葉を聞いて、おそらくは全てのクリスチャンがアーメンと言うに違いありません。
しかし、私たちは忘れるのです。「アーメン」と思っても忘れてしまう。
目に見えること、日々のことに追われ、
昨日のつぎの今日であり、今日のつぎの明日であり、
1年後、5年後、10年後
今と同じ暮らしがそこにあり続けるのだと
本当は神さまのご計画など成就しないと思っているわけです。

しかし、やはりそうではない。
…あり得るとは予想で来ていても、わが身に起こるとはまったく想定していなかったあらゆることが起こっているのです。
そして私たちは何度も何度も「神さま、なぜ?どうして?」と問いかける。

しかし、私たちがどう思おうと、私たちがヨブのように主張しようとも
その全てはみこころのままであります。
みこころは成し遂げられ、
そして何事もなかったようにひろがる青空。
あまりにも爽やかなその青さに、
不信をもたらすむなしさと、そして怒りにも似た感情が
クリスチャンであったとしても心の中に拡がっていくのを感じてしまう。

けれども、そんなときに「こそ」私たちは「あえて強く」心の中に思い出せなければいけません。神さまは天の「父」であるのだということを。神さまの私たちへの愛は変わらないということを。
そしてたとえあの瞬間が、私たちから何もかもを奪い去り、生きていく自信や気力をすべて失わせたとしても、

それは、間違いなく神のみわざが私たちを通して現れるためである、ということを。

そして、もう一つ。
誰が何と言おうと
父なる神さまのご計画は必ず成し遂げられる




マタイの福音書の25章にはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえがあります。
マタイの福音書が書かれてから今に至るまで、このたとえ話はたくさんの人々に読まれ続け、おそらくその読者のほとんどが単純な発想としてあのような愚かな5人の娘にはなるまじと思うわけであります。それで、「油をあらかじめ準備しておく」というのは聖霊の満たしであるから、聖書を読もう、祈ろう、教会に行こうとメッセンジャーから勧められるのが当然の展開となるわけですけれども、しかし、本当に彼女たちはそんな単純明解な基本的なミスを犯したのでしょうか。

ヨブ記を読んだり、私たちに起こるいろいろな問題について考えつつ、この終末を想起させるたとえ話を読むとき、事はそう単純なものではないような気がするのです。
なぜならば、まずあの話はクリスチャンたちに対する重大な警告からスタートしているからです。
「花婿が来るのはクリスチャンたちが居眠りしてしまうほど遅れる」
定番の解釈によって花婿を再臨のキリスト娘たちをクリスチャンと読むならばまずはそういうメッセージが読み取れるわけです。
このたとえ話を読むときに気を付けなければいけないのは、このストーリーの設定がどことなくほんわかムードであるということです。花婿だのおとめだのランプだの、おめでたいようなほんわかふんわりかわいらしい設定であるのだけれども、終末というものがどういう時であるのか聖書のすべてを読んで知っている私たちは決して印象に引きずられてはいけないのです。情報の解釈、そして取捨選択、それが生死にかかわってくる終末のことです、めとったりとついだりしているまさにそういう日常がある中での終末ですからこのストーリーから今という終末の時代を生きているキリスト者として何を読み取るべきなのかと考えなければならないと思います。
とすると、この話は花婿の到着(キリストの再臨)がかなり遅れたけれどいよいよ到着されるという辺りについて述べられている、というふうに読めますから、愚かな5人の娘については、花婿の到着がかなり遅れたけれどいよいよ到着されるという辺りに存在しているクリスチャンたちへの警告であり、マタイ24章からの流れを受けるならば、困難な時代となるから、本当は出迎えに出るつもりであったが出迎えに出られない者が出る、つまり、脱落する者が出る可能性が語られているということだと思うのです。


・・・ということを、教会を離れて20年の孤羊ばあさんが語るというのはどうなのかという気はしなくはありませんが(笑)


しかしはっきりと言えることは
どんな立場にあってもどんな状況にあっても、
悩みに打ちひしがれたとしても、苦しみのゆえに何も考えられなくなったとしても
「油」の準備、
ただただこの一点だけは決して忘れてはいけない。


で、ここからは「今時点での私の解釈」(つまり、もしかしたら後の日には変わりうるもの)となりますが、

ではどうやってその油を準備するべきなのか。
どうしたら世の光として「ともしび」をともしつづけることができるのか。
その手がかりは
「言(ことば)は神であった、ので」
という、この言葉に見いだすことができるのではないかと思うのです。


生後すぐには言葉を持っていなかった私たちは、教育によって生活によって人々との触れ合いによって言葉を獲得し、言葉によって思考するようになるわけですが、
そういう日々の歩みの中に「神のことば」が介入しそのことばを獲得し思考するようになる、このあたりが私たちの光の原因であり結果となっていくのではないでしょうか。

言(ことば)は神であった、ので

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1章1~5節





「ことば」というものはそれを発する人の奥深いところからくみあげられ
その人の願いのような漠然とした形のないものに音や文字といった形を与えていくものですね。

聖書(創世記)の冒頭を見ると、この世界のもろもろは神の「ことば」によって創られたことが書かれています。「混沌」である原始の世界に、神の奥深いご意志を「ことば」によって形あるものにされた、まさに「ことば」。
そう、「ことば」とはそういうものなのだ、われわれ人間に与えられているところの「ことば」もそういうものなのだという定義のようにも聞こえてくるのであります。


今日冒頭に引用した箇所でヨハネは

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

と語り、

聖書を知るだれもが知っている通り「初めに」あったのは神であるが、「初めに言(ことば)があった」と言い、神が五感で認識できるような形を持っておられる方ではなく「ことば」なのだと言うのです。
ヨハネはトーラーと、そしてメシアとしてこられたイエスさまを思いながら、
同時に
「わたしはある」という「ことば」を発する主体の存在を思い、
その主体から発せられる「ことば」そのものは完全に主体ご自身であるということ、
そして、発せられた「ことば」がそのものとして形をとるならば、主体から発せられるのだから主体と同一であり、さらに主体の外に出たとしても「共にある」状態となる

という彼の信仰を宣言しているのですね。



さて、
同じヨハネが記録したとされるヨハネの黙示録16章にこういう箇所があります。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。


ヨハネの黙示録という書物は読み解くことは難しく、注意のいる書物でありますが、今日は上に書いたような「ことば」という視点が与えられたのでその視点で16章の箇所を見ようと思います。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。

蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見たと語るヨハネ。
興味深いことに汚れた三つの霊は「口から」出て来るというのです。
ヨハネがどういう光景を見たのかを、「光景」であっても絵として受け取ることは出来ないのですが、言葉として、解釈しうる言葉として受け取るなら、

三つの霊はまずは蛙のようであるということ。蛙とは、聖書の世界のことでありますから汚れたものの比喩ということでしょうが、蛙と言えば特徴的なのはあの鳴き声。合唱されるとなんともやかましい。


その「蛙のような霊」が
終末のある時に、
竜の口、獣の口、そして偽預言者の口から出て来るというのです。
姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴(ガラテヤ5章19節から引用)
の父であるサタン、悪魔、神を神とせず反逆する者破壊する者の口から!

これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。



サタンの口から出て来る悪霊どもの霊。

「口から出て来るもの」



しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 マタイ15章18、19節






「神の御言葉」によって造られたよいもの=完全なもの
それを破壊するサタン。
破壊者も「言葉」によって破壊する。
破壊者の言葉は敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。

そして、申命記10章にはこんな御言葉があります。

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。


この申命記の御言葉が神さまの御心であるということを私たちクリスチャンは信じているわけでありますけれども
だとすればこの御言葉に反逆するようなことをサタンは語るはずなのであります。
神を神とせず、人を偏り見、わいろを取り、孤児と寡婦の権利をないがしろにし、在留異国人を憎み排除しようとする。
そういう言葉を語る世界の王が出現する。


終末のある時、
蛙のような汚れた三つの霊が
竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から出てくる。
そして、それは
神に反逆するものの語る言葉は言葉として人間を迷わせる。
エバが蛇に惑わされた時のように
その言葉は一見するととっても麗しく見える。
しかし、その言葉のもたらすものは死!
弱いものを顧みることのない
自己中心的な欲を満足させる言葉
破壊者の言葉は世にあふれ
幼児から高齢者に至るまで
その言葉を繰り返し聞かされ、
心に植え付けられ、
心がその言葉で満たされ、
やがてはその言葉を自分の言葉として発するようになる。


そして
人は持っているその言葉で考え
持っているその言葉で判断する。










また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。


ここに引用した黙示録16章1、2節を読むと、「言葉」そして「言(ことば)」というものの重みをいっそう感じさせられます。

第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。

と言うので、海の中の生き物は天使が注いだ何らかの物によって絶滅するわけですね。そして地上に住む人間の場合は

第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。

天使が注いだ物質によって悪性のはれ物が出来る者と出来ない者という差が生じるというのです。
なぜ、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物が出来るのか、と考えるわけですが、
同時代に生きる人間の遺伝子や環境条件はだいたい一緒だと仮定して考えるならば、こういう違いを生じさせるためには「鴨居と入り口の二本の柱に過越の羊の血を塗れ」というのと同じようなやり方で「情報」がもたらされて選別されると考える以外に方法がないわけです。
情報(ことば)を受け、情報を信じて従うか従わないか、そういう差。


「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ヨハネによる福音書10章1~5節


メシアによる「救い」が彼の言葉を信ずるか否かでもたらされたこともそうでありましたが、終末に羊飼いなる主は、どういうタイミングでいかなる方法を用いて私たちに情報を与え連れ出してくださるのでしょうか。

 


聖書を一冊を貫く思想=神の御心 をしっかり心に持った状態で、
普通にテレビニュースを見、ネットのニュースを読んでいたら
きっとなにか気付くことがあるのかもしれません。

聖書はあるし聖霊さまがともにいてくださるのですからね。
聖書をしっかり読んでいさえすれば、
絶対気づく。
言(ことば)は神なのですから。