2016年12月12日月曜日

偶像(2)

最近私は「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を読んでいるのですが、
詩篇23篇でダビデが「主は私の羊飼い」とたとえたその深い意味を学ぶ面白さにすっかりはまってしまいました。
羊という動物の性質や行動の細かいことを知れば知るほど、羊飼いとたとえられたお方のいっしょうけんめいな愛を感じます。

例えば41ページのこんな記述や

「(略)予期しなかった小さな犬をちょっと見ただけで(略)二百頭を越える私の羊は(略)逃げた。」「(略)無力で、臆病で、弱々しい、ただ逃げることしかできない動物」

71ページ

「(略)最も強い、時にはもっとも健康な羊でさえ、倒れて、死傷することがありうる」

69ページ

「ひっくり返って、自分で起き上がることのできない羊(略)立ち上がろうとしてもがく中で皮がむけてくる。(略)持ち主がかなり短い時間のうちにそこに到着しないと、羊は死ぬ。」

転びやすい性質を持つ「私」という羊が、うっかり転び、ひっくり返った挙句に起き上がれず、狂ったようにもがいているとき、羊飼いである主は何をおいても飛んできて抱きかかえて起こしてくださるお方なのだ、何回転んでもやさしく起こし、傷だらけの体に薬をを塗って、おいしい露にぬれた青草を毎日毎日食べさせてくださる。だからこそ今もこうして生きていられるんだ、と本当にうれしくなりました。


さて、

今日のタイトルは「偶像」であります。

実はこの本の42ページにこんな文章がありました。
42ページ

「時が経つにつれて、羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。主人、持ち主、保護者がそこにいることで、彼らは何よりも安らぎを感じた。」

そこを読んだとき「ああそうか、だからクリスチャンは偶像をつくってしまうのだ」という思いに至ったのです。
「羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。」と書かれていますが、ここです、羊のこの性質が「無意識下の悪意なき裏切りの自覚なき偶像」を作り出してしまうのです。

人間の目にはっきりと見えたお方イエスさまが地上にいらっしゃらない今、
もちろん私たちには聖霊さまが与えられているわけですが
神さまを「五感で感じられない」という問題は、特に偶像の国「日本」で生まれた羊に取っては大きな不安定要素になるのです。
で、
教会の十字架を見るとほっとする、とかいうことになったりし、
それがエスカレートすると
十字架のペンダントを身につけたり握りしめていると幸せな感じになる、とか、
牧師や伝道者の言葉を神の言葉であるかのごとく扱ったり、神の言葉を取り次ぐ通りよき管にすぎない者たちを神のごとく絶対視するようになるわけです。
そして、牧師や伝道者の側も、結局はただの人間ですから、嫌われるより好かれたいし馬鹿にされるより尊敬されたいから地上の諸々の権威を着ようと努めたり、この世で評価を受けている何物かを神の言葉に混ぜ込む、とか、そういうことをし始めるわけです。

もちろん本人たちには偶像の自覚はないのです。
救いにとって重要な「十字架」なんだから何の問題はないと思い、
聖職者たち教職者たちを尊敬するのは当然のことなんだし、彼らはよく聖書を学んでいるから彼らの語る言葉は絶対だ、と思う。
そして、地上に生きているんだから地上の権威はいろんな意味で重要だ、と考えている。たとえば、著名な学者や政治家や芸能人が信者であれば「教え」に信頼を得やすいし、科学という言葉を混ぜたり、学歴のある人や士業の信者が語れば「教え」に箔が付く、みたいな。

しかし、それらはちょっとした拍子にズレて偶像となってしまう。






神さまは、目で見えないし手ではさわれないお方です。しかし、
神さまは「ことば」であられ、御言葉によって私たちと豊かな交わりを持ってくださいます。
神さまご自身には私たちが認識できるような形はありません。しかし、
神さまは「ことば」によって創造された素晴らしいものをたくさん見せてくださいます。
それで私たちは信じ、満足し、喜べるはずなのです。

もっともっと個人的に神さまの「ことば」を求めていくこと、
やはりそこが最も大切なことなのだと思います。

 

2016年12月8日木曜日

残りの者(1)

黙示録3章1~3節
3:1サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。 3:2目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。 3:3だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。(口語訳)


私は30年以上の間「新改訳聖書」を読んでおりましたので気づきませんでしたが、口語訳もしくは新共同訳聖書を開くと3章2節に「残りの者」という表現があるのです。
 
「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。(口語訳)」

新改訳聖書では、ここを「ほかの者」と訳しているのですけれど、ギリシャ語聖書にはこう書かれています。
λοιπὰ (loipa)

Strong's Concordanceでこの語句を見ると、
Short Definition: left, left behind, the remainder
Definition: left, left behind, the remainder, the rest, the others.
とあって、the othersという訳語をあてることに問題はないのですが、
left, left behind, the remainder, the rest,というニュアンスを持つ語だと理解すると少々話が変わります。というのは、

旧約聖書に書かれているところの「残りの者」という言葉には、神に従っていたからこそ滅ぼされずに地上に残されたものたちという意味があるからです。
たとえばノアの箱舟のストーリーにおける滅ぼされた者と残った者との違い、
ほかには列王記上19章のところ、そこではエリヤのエピソードの中で、神さまがこのように語ってくださる場面があるのです。
「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である 列王記上19:18(口語訳)」

ここにある「残す」という言葉はヘブライ語でוְהִשְׁאַרְתִּ֥י wə·hiš·’ar·tî
この語はこの形でゼパニヤ書3章12節に登場します


3:12わたしは柔和にしてへりくだる民を、
あなたのうちに残す
彼らは主の名を避け所とする。
3:13イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、
その口には欺きの舌を見ない。
それゆえ、彼らは食を得て伏し、
彼らをおびやかす者はいない」。


ほかに、
「残りの者」という表現が多用されているイザヤ書から10章20~23節のところを引用してみます。
 
10:20その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、
 10:21残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。
 10:22あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。
 10:23主、万軍の主は定められた滅びを全地に行われる。

שְׁאָ֤ר šə·’ār


ただ、ここに挙げたような表現を見るだけでは黙示録3章2節の「残りの者たち」新約における「残りの者たち」が本当に同一のものなのかぼんやりしていますね。


こんなときにこそ、パウロの聖書解説!

上に引用した列王記上19章の御言葉について、パウロがローマ人への手紙11章で解説してくれているところがあります。
 
「しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。11:4~5」

「残りの者」という言葉には神さまの恵みによって選ばれ、滅びずにまだこの地上にいる者という意味があるのだ、ということがわかります。