2015年9月8日火曜日

主のことばを聞くことのききん

平日朝5時台、家事をしながら日テレを見ていると、「あいことば」というコーナーがあり、キャスターが短い「言葉」を読んでくれます。朝のひととき、心に残る言葉もあり、ちょっと手を休めて聞くこともあるのですが、

それを見ながらいつも思うことは「人は言葉によって生かされている」ということです。
人はパンのみにて生くるにあらず、と聖書にありますが、私たち人間はもちろん食べなければ命がありませんが、満腹したとしてもそれだけでは今日の歩みを進める気力と言いましょうか意欲といいましょうか、心に力を得ることが出来ないのであります。


母の胎を出て、保育園幼稚園に通い始めた瞬間から、私たちは毎日外に出て、より高いもの高いものをと頑張らされてきました。
それでも、小さな頃はおりこうだね^^なんて褒めてくれた人が一人くらいはいたのかもしれません。
しかし、成長するにしたがって親の目はつり上がり、優しい幼稚園のときの先生みたいな先生は中学校のどこをさがしてもいやしない。私が中学生の頃などはまだ体罰も日常的にありまして、何時間も正座させられたり頭を平手やスリッパでひっぱたかれたこともありますし、竹刀をぶらぶらさせながら歩いている教師もおりました。
そして、もはや誰もほめてなんかくれません。ダメ出しばかりです。
順位が下がった偏差値が下がったこんなんじゃだめだ

…そしてそれは学校を卒業し社会に出てからも形を変えてずーっと続くのでありました。


人間ってどうしてこんなに疲れるのでしょうか。
栄養ドリンクを飲んでももつのはわずかな時間

朝起きてだるくて重いのはもちろん肉体の疲れもありましょう。
しかし、もし心に力があったらもうちょっと変わるのではないのかしら。


ならば、心にはどうやって栄養を届けるのか。

で、おそらく日テレさんは「あいことば」っていうコーナーを作ったのではないかと。
朝、出かける前のひととき
せわしさと、今日の予定と不安でいっぱいいっぱいになっている心に
ふわっとした安らぎのひとときっていう感じで。


「言葉」ってね、嫌な言葉は人を死に追いやってしまうこともありますけれども
「生きよう」「もう少しだけ頑張ってみよう」という力を与えることもありますよね。



なぜでしょうかね。


「いのち」って、一般的には命ではない物質が劇的に化学変化して出来たってことになってますが、物理的に割り切れないふしぎなものですね。
単なる物質であるならば、車のようにカロリーさえあれば元気が出るはずなのにそうではない。
(ビタミンが必要とかそう言う意味ではありませんよ(^O^)
なぜ、快とか不快とか気力とかそういうデリケートなものがあるのか。


人間だけのことではありませんけれども、脳を持つ動物はやはり何か単純な物質とは違う部分があるのですよね。偶然の産物とは思えない、クリエイトも出来、死をも思い企てさえする「脳」。



やはり、生き物というものは、どなたかの設計で作られた作品であるとしか私には思えないのです。



そしてそれこそが
私たち人間が「言葉」によって力を得ることが出来る理由でもあると思うのです。

聖書を読むと一つのヒントが与えられます。


初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。新約聖書ヨハネの福音書1章1~5節

旧約聖書の創世記を併せてお読みいただくとおわかりいただけると思いますが、
私たちは、神さまと親しい関係にある時にベストが尽くせるよう神さまによって設計され神さまのことばよって造られた者です。
闇に打ち勝つ光である神さまの、「愛あることば」をしっかり心に受け取って初めて本来の、「設計された通り」の力を発揮できるように造られているのです。

だから、そこに至るまで私たちには何かが足らない
それで何かを探し求め続けるわけです。


良い言葉を聴きたい、
良い言葉を聴いてパワーを得たい
良い言葉を聴くと元気が出る



しかし、この似て非なるもの、
この世の与える「水」は飲んでも飲んでも渇くのです。
名言であろうと、励ましの言葉であろうと
いただいたときには元気が出ますし
時には座右の銘などと言って人生の指針にしたりしますけれども、

究極的な力にはならない。
どん底に落ちておかしくなってしまった自分に力を与えたのは誰の言葉でもありませんでした。
神さまのことば、聖書のことばでした。
死に打ち勝つ力がそこにあり、神さまのことばは私に道を示してくれました。



あなたを造られた私を造られた神さまのことばは
永遠のいのちを与えます
渇くことのない水、命の水となるのです。






さて、


そう言っておきながら最後にオソロシイ言葉を付け加えておきましょう

旧約聖書のアモス書8章11~13節
見よ。その日が来る。
―神である主の御告げ―
その日、わたしは、この地にききんを送る。
パンのききんではない。
水に渇くのでもない。
実にの言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へとさまよい歩き、
北から東へと、
のことばを捜し求めて、行き巡る。
しかしこれを見いだせない。
その日には、美しい若い女も、若い男も、
渇きのために衰え果てる。

ひとつの聖書のことばに近景と遠景を見るという読み方をするならば、
これはこれから本当に恐ろしいことが起こるという風に読めます。



を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。イザヤ55章6節



2015年9月4日金曜日

それは今私が知らないだけ

ああ、私が前に進んでも、神はおられず、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。ヨブ記23章8,9節
ヨブの苦しみ、
それは彼自身の身体に起こっている問題や愛するものとの悲しい別れ、そして財産を失うことにとどまらず 、その苦しみを親しい友人にも理解してもらえないということであったと思います。
しかしそれ以上であったのは、神さまがわからなくなってしまったことなのだ、とつくづく思います。愛なる神さま、恵みに富みあわれみに富み豊かに与えてくださるはずの神さまがいったいどこに行ってしまわれたのか、
「ああ、私が前に進んでも、神はおられず、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。」

クリスチャンにとっても、正直言って、こう感じざるを得ない、大いなる失望でも申しましょうか、そんなときが無くはない。



しかしです。
このヨブの言葉はそのまま真実なのでしょうか。
神さまはおられないのでしょうか。神さまは休暇を取っておいででしょうか。

そんなことはないのです。
聖書をまるまる一冊読むことの出来る現代の私たちには、ヨブがこのようにつぶやいた瞬間に、
神さまがいったいどこにおられたのかよくわかっています。

神さまは私の言葉の一部始終を聴いておられる方。
神さまは私の言葉を無視されない方。
神さまは共にいてくださり私を背負ってくださる方。
です。

そして私たちはヨブ記の最後をよく知っておりますから
ヨブよ、そうではないのだよ、と私たちは彼に語る事が出来るのであります。



今は山が微動だにせず、
事態はひたすら悪い方に行っているようであり、
まるで神さまがいらっしゃらないように感ずる時、


しかし、私たちはみ言葉を読み、
み言葉にそう書いてあるのだから、「信じる」。
神さまがそう言われたのだから、「信じる」。
それが「信仰」と呼ばれるものです。



ヨブさん、あなたには今はわからないと思いますが、
あなたのどん底のつらさと
あなたの人生の一部始終は
私たちの聖書に書いてあるんで私知ってるんですが、
もう少しで終わるから
そして、最後いい感じだから
もう、ちょっと、もうちょっとだけ耐えてください。
しかもあなたの苦しみによって私たちは、相当ななぐさめをうけております。
あなたの苦しみは世界中の人々を生かす深い意味のあるとてつもない価値のある苦しみなのですよ。

絶対さいごいい感じに終わるからね。(^O^)


そう。
だから私も

信じます。

2015年9月1日火曜日

甲状腺がん「疑い含め137人」という話

Our Planet-TVのニュースを見ました。

甲状腺がん疑い含め137人へ、2巡目は25人〜福島健康調査

https://www.ourplanet-tv.org/38251/

 

福島県は31日、東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて実施している福島県民健康調査の専門家会議を開催し、新たな甲状腺がんデータなどを公表。甲状腺がんと疑われる子どもは検査対象の38万人のうち、137人となった。すでに手術を終えたのは105人。病理診断により1人は良性結節、残りの104人が甲状腺がんと確定した。


ただただ悲しい結果であると思いました。

38万人のうちの幾人

と表現されますけれども、

人生を歩み始めたばかりの子どもたちに病が見つかり
しかもそれがガンであったとき

保護者の方々、ご家族の方々の悲しみはそして不安はいかばかりでありましょうか。




数字の遙か向こうに

病院の診察室で涙を浮かべる人々の姿が
私には見えてきます。

心のうちを想像すると涙は止まりません。





しかし
そう、
「あの人たち」には関係ないし、
「あの人たち」に理解など出来るまい。

単なる数字
厄介な数字

そう思っていればいい。


137人の子どもたちの家族の苦しみは
神さまのノートにきちんと記録されているのだ。
決して消されることなどない。
忘れられることなどない。


「復讐するは我にあり」だと


私はそう信じています。


小さき者、弱い者をないがしろにする者は
決してゆるされません。