
そういうところで教えられたのは「イノル(オガム)、ガンバル、御利益アル。」
もちろん細かいことはいろいろありますけど、要は「イノル(オガム)、ガンバル、御利益アル。」でした。
そんな私がクリスチャンになり、キリスト教で教えられるところの神さまに祈るようになったわけですが、実はクリスチャンとなってもたぶんほぼ同じコトを考えていたのです。御利益宗教じゃないのは百も承知してるんだけど、祈った結果として「自分の思いがかなうことが幸せ」だって。
だから人にもこう声を掛けるわけです。
「あー大学受かったね、祈ってたんだよぉ~。感謝だね~。」
「就職決まったんだ、このご時世にねぇ感謝だね~、祈りが聴かれたねえ。」
「手術は無事に成功?それは感謝感謝。」
…確かに感謝だ。
でも、じゃあ、大学落ちて就職も決まらないで手術にも失敗したら?
ヨブ記か?
子供のアトピーや薬害、BCG事故など、これでもかこれでもかと困難がつづいていた10年前のある日そんなことをふと思ったのでした。
さて、
今年、3月11日
あの大きな地震があった夜のこと
…クリスチャンになって以来初めて
「祈れない」
という体験をしました。
口から出る言葉は「神さま…」のみ。
それ以上何も言えない。祈れない。
何も言葉にならない。
テレビ、ラジオ、携帯からの緊急地震速報におびえ、
津波の映像に震え、言葉が出ないのです。
祈れない。
みことばも思い浮かばない。
パニックだったんですかねえ
とにかく30年もクリスチャンであるのに、
そんな状態になってしまったんですね。
で、どうしたか。
祈りました、「主の祈り」。
夜、ふるえながら「せき髄反射」のように出てきた言葉が「主の祈り」だったからなのですが。
(注:最近まで所属していたオープンブレズレンの集会では「主の祈り」を祈ることは一切ありませんでしたが、受洗前によく聴いていたFEBCや洗礼を受けた福音的な教会、そして職場で、「主の祈り」をよく祈っておりました。)
あの夜、
イエスさまが「こう祈りなさい」と教えてくださったお祈りをゆっくり祈る中で
10年前に抱いた祈りについての疑問に答えが与えられたような気がしました。
この祈りは聴かれる。だってそうなった方が絶対未信者の人への証しになるし、教会の成長発展のためにもなるし、…そう、御心にかなう祈りだから、これは。」
そのような自分の祈りと、ご利益宗教における「イノル、ガンバル、御利益アル。」とどこが違うのか。
限りある人間の「コレがベスト」という浅知恵を力ずくで神さまに押しつけ、
説得するかのごとく、何が何でも願いを聞いてもらおうとする態度は
…まあ、神さまだから赦してくださるでしょうけど
神さまに信頼するという観点からみたらどうなのか。
もちろん、新約聖書の教えに基づいて「しつこく祈る」ことを勧められることもあるけれど、都合のいいよう解釈してしまってはいないだろうか。
永遠を見ることの出来ない人間にここでの最善を断言できるのだろうか。
私のこの時点の望みや都合は永遠という観点から判断した時にどうなのだろうか。
たとえば…この悲惨な災いにクリスチャンはどう答えを出すのか。
苦しい、助けてほしい、と叫びながら息絶えた人々は祈り足りなかったからだとでも言うのでしょうか。
そしてあの日からずっと苦しみの中にいて、祈りに祈り、しかし事態がいっこうに改善の方向に向かわぬままのクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。
弟子たちだってイエスさまに死んでほしくなんかなかった
じゃあそれでそのみんなの願いの通りになればベストだったのか。
神さまは人間の望みも願いも否定はされませんし思うこと祈ることは自由なのだとは思います。
キリスト教における祈りとは、
命をも惜しまずに与えてくださった子なる神さまによって交われるようにしていただけたという奇蹟、
そして、聖霊さまの力によって御心を理解させていただける奇蹟、