2011年12月4日日曜日

「主の祈り」を祈りつつ「祈る」を考えた話


私は日本で生まれ育ち、クリスチャンになる以前には伝統宗教や新興宗教…いわゆる御利益宗教と呼ばれるものにいろいろ関わらされておりました。
そういうところで教えられたのは「イノル(オガム)、ガンバル、御利益アル。」
もちろん細かいことはいろいろありますけど、要は「イノル(オガム)、ガンバル、御利益アル。」でした。

そんな私がクリスチャンになり、キリスト教で教えられるところの神さまに祈るようになったわけですが、実はクリスチャンとなってもたぶんほぼ同じコトを考えていたのです。御利益宗教じゃないのは百も承知してるんだけど、祈った結果として「自分の思いがかなうことが幸せ」だって。


だから人にもこう声を掛けるわけです。
「あー大学受かったね、祈ってたんだよぉ~。感謝だね~。」
「就職決まったんだ、このご時世にねぇ感謝だね~、祈りが聴かれたねえ。」
「手術は無事に成功?それは感謝感謝。」

…確かに感謝だ。
でも、じゃあ、大学落ちて就職も決まらないで手術にも失敗したら?
ヨブ記か?

子供のアトピーや薬害、BCG事故など、これでもかこれでもかと困難がつづいていた10年前のある日そんなことをふと思ったのでした。

さて、
今年、3月11日
あの大きな地震があった夜のこと

…クリスチャンになって以来初めて
「祈れない」
という体験をしました。
口から出る言葉は「神さま…」のみ。
それ以上何も言えない。祈れない。
何も言葉にならない。
テレビ、ラジオ、携帯からの緊急地震速報におびえ、
津波の映像に震え、言葉が出ないのです。
祈れない。
みことばも思い浮かばない。
パニックだったんですかねえ
とにかく30年もクリスチャンであるのに、
そんな状態になってしまったんですね。

 で、どうしたか。

祈りました、「主の祈り」。
夜、ふるえながら「せき髄反射」のように出てきた言葉が「主の祈り」だったからなのですが。

(注:最近まで所属していたオープンブレズレンの集会では「主の祈り」を祈ることは一切ありませんでしたが、受洗前によく聴いていたFEBCや洗礼を受けた福音的な教会、そして職場で、「主の祈り」をよく祈っておりました。)





天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン





あの夜、
イエスさまが「こう祈りなさい」と教えてくださったお祈りをゆっくり祈る中で
10年前に抱いた祈りについての疑問に答えが与えられたような気がしました。


「言うことは言った(手帳を見ながらあの人のこともこの人のことももれなく祈ったし、毎日祈った)。やることはやった(毎日聖書は読んでいる、教会の礼拝は欠席していない)。
この祈りは聴かれる。だってそうなった方が絶対未信者の人への証しになるし、教会の成長発展のためにもなるし、…そう、御心にかなう祈りだから、これは。」


そのような自分の祈りと、ご利益宗教における「イノル、ガンバル、御利益アル。」とどこが違うのか。

限りある人間の「コレがベスト」という浅知恵を力ずくで神さまに押しつけ、
説得するかのごとく、何が何でも願いを聞いてもらおうとする態度は
…まあ、神さまだから赦してくださるでしょうけど
神さまに信頼するという観点からみたらどうなのか。
もちろん、新約聖書の教えに基づいて「しつこく祈る」ことを勧められることもあるけれど、都合のいいよう解釈してしまってはいないだろうか。

永遠を見ることの出来ない人間にここでの最善を断言できるのだろうか。
私のこの時点の望みや都合は永遠という観点から判断した時にどうなのだろうか。






…でなければ、
たとえば…この悲惨な災いにクリスチャンはどう答えを出すのか。
苦しい、助けてほしい、と叫びながら息絶えた人々は祈り足りなかったからだとでも言うのでしょうか。
そしてあの日からずっと苦しみの中にいて、祈りに祈り、しかし事態がいっこうに改善の方向に向かわぬままのクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。






「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
と主が祈られたことを思い出しました。

弟子たちだってイエスさまに死んでほしくなんかなかった
理屈はともかく、それがその時のみんなの「気持ち」だったと思います。

じゃあそれでそのみんなの願いの通りになればベストだったのか。



神さまは人間の望みも願いも否定はされませんし思うこと祈ることは自由なのだとは思います。
「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

キリスト教における祈りとは、
神さまを人間の願い通り思い通りに動かすための手段ではない!



祈りとは
永遠から永遠まで全てをご存じである父なる神さまと、
命をも惜しまずに与えてくださった子なる神さまによって交われるようにしていただけたという奇蹟、
そして、聖霊さまの力によって御心を理解させていただける奇蹟、

どんなことが起ころうとも三位一体の神さまに身を任せて安らげる奇蹟。




「主の祈り」を祈り、
落ち着き、

知らぬ間に眠りにつく事の出来た夜でありました。


2011年8月20日土曜日

私の高祖父

新宗教や占いにはまっている母が、お墓参りに行くところだと言ってわが家に立ち寄った。
なんでも、今日はこれまで行ったことのないお墓に行かなければならないらしく、それもわが家の近所らしく、これこれこういう名前のお寺は知らないか、と場所を尋ねられた。

残念ながら、というか、当然ながら私がお寺の場所や名前を知るはずもなく全く分からなかったのだが、老いた母にハンドルを握らせて未知の場所に行かせることが怖かったので、ついて行くことにした。

途中、商店などで二度も道を尋ね、やっとのことでたどり着いた。

車を降りれば焼けるような暑さ、古木に群がるセミの声。

木陰を選んで歩いていくと、まだ建てなおしてそれほど経っていない新しい石塔があり私の「母の母」つまり母方の祖母の実家の人々の名前が刻まれている。

「なになに?これが、おばあちゃんのお父さんとお母さんで、これがお兄さん?それでこれがおばあちゃんのおじいちゃん?」(ややこし)


実は、今日母がここにやってきたのは、私の祖母の祖父、つまり、私の「高祖父」に当たる人を供養するためなのだという。

この、100数十年前に生まれた高祖父が成仏できていないために、いろいろな悪いことが起こっている、と占い師に指摘されたのだという。(いったいどんな悪いことがあったのか私は知らないが(;´Д`A ```)

「何でこの人?何かあったのこの人に?」

「良くわからないんだけどさ・・・」

母によると、家族構成も知らないはずの占い師が、すべてお見通しだと言わんばかりに会った途端すらすらと家系図を書きはじめ、「この人が成仏していないのが諸悪の根源」だといって指さしたというのである。

「このおじいさんはさ、母さんから聞いたことがあるんだけど、熱心なクリスチャンでね、教会を建てたらしい。でも家族も親族もそうじゃなくて、このお寺の檀家だったから、いろいろもめて大変だったらしいんだよね。」と母。

大体、祖母の実家がこの辺(つまりわが家からそう遠くないところ)だったなんて今日初めて知った。その上、高祖父はクリスチャン?教会作ったって?

成仏云々はわからないし、占い師が何で突然そんなことを言い出したのかもわからないけれど、家族にも親族にもクリスチャンはいないのだ、とずーっと思ってきた自分にとってそれは大変な驚きで、

自分がまるで一本釣りのように救われたのは、高祖父の祈りというものがあったからなのではないかとも思った。


「おじいさんが教えたのかしれないけど、母さんはよく讃美歌うたってたよ。
主われを愛すとか、いつくしみ深きとか」

え?私の知ってるおばあちゃんは和讃やって詩吟やってる人なんだけど??
そんなの初耳だ。


・・・だからおばあちゃんは私が福音を語っても嫌な顔をしなかったのかもしれない、と思った。



「永遠」という、人間には想像の付かない時間と空間を支配されている神さま。

「主イエスを信じれば家族も救われる」という御言葉に、「無いね」と断言し、ため息しか出ない自分だったけれども

祈りとは、自分の確認できる範囲で聴かれるとは限らないのだ、ということに気付かされたような気がした。

神さまは時間を超え、空間を超えておられるお方であるということが、
なんとなく、わかったような気がした。

2011年6月11日土曜日

私は怒っている


個人の有志ではなく国が主導でどんどん測定しなきゃダメだ。
人類にはチェルノブイリの経験があるんだからさ、どうすればいいかわかるだろう?
政府が調査している人の妨害してるっていう話も聞いたし。
いったいどうなってるの!

どんどん測ってさ、
距離にかかわらず避難が必要であれば情報をさっさと開示して指示を出すべきなのにそれができない。
どうせ補償にかかる目先の金銭のことばかり考えているんじゃないの?
未来(こども)より目先のカネなのかよ。

目先のカネにとらわれ情報の隠蔽によりすでに被ばく者多数。
今もなお放射能に汚染された各地で乳幼児、小中高校生の被ばく拡大中。



とんでもない量の放射性物質が群馬に降り注いだあの日、
雨の3月22日レインコートも着ないで雨に濡れながら自転車をこぐ中高生。
わが家でムラサキツユクサが突然変異を起こしている横で畑を耕す農家の人。

…汚染されているかもしれない原乳をつかった給食の牛乳を飲む子どもたち。

なんで、放置しておくんだよ!!





我々はチェルノブイリを知っている。
福島の原発周辺は30年くらいは戻れないと外国メディアには語っていた日本人の学者もいる。
メルトダウンどころかメルトスルーしていることも情報として出ている。

それなのに、何が安心安全なんだよ!


先進国でありながら大勢の科学者を持ちながら
そして唯一の被爆国でありながら
一体どうなっているんだこの国は!


変な期待持たせるんじゃないよ。
常識的に考えればさ。
わかるだろ東工大出身の菅さんよ?



放射能を帯びた瓦礫、汚泥、汚染された諸々
散らしてはいけない!
基本に忠実に
集めて封じ込めろ!
なぜそれができないんだ!








あー、もしも放射性物質に毒々しい派手な色と強烈な不快臭があれば
どんな人でも危険を感じ
こんなところにはとても住むことは出来ない、とわかるだろうに。
汚染水、汚染食物は一目でわかるだろうに。
そして、人をだます事なんか出来ないだろうに!







放射能で汚染された可能性のある食べ物を
道徳的で麗しいキャッチコピーのもとで流通させ、
全国民をあまねく内部被ばくさせようとしているとしか言えない今日この頃。
地産地消だと言って日本の未来である子どもたちを被ばくさせようとしている今日この頃。

流通しにくいとわかれば業者は案の定早速の産地偽装。
そして次は加工して産地ローンダリング。
悪事は巡り巡って自らのわざわいとなることに気付いていない!






放射能汚染ゆえに後々人々が病気になったとしても
…どうせこう言うに違いない。

「あなたの病気が被ばくによるものかどうかははっきりわかりません。
だから補償はできません」ってね。

いつだってそう。
この国で何らかの被害に遭うということはそういう結果になる。
何十年も裁判で争い、もめにもめ、傷つき・・・






今さえよければ、今を乗り切れさえすれば、と「悪いやつら」は思っているのだろう。


しかし、悪人ども
たとえおまえたちが忘れたとしても
私は絶対に、絶対に今の時代のこの悪事にかかわった人間たちを赦さないからな。

赦さない!絶対!

2011年5月12日木曜日

メルトダウン

東電はこれまで、1号機の原子炉の核燃料の損傷度を55%とし、燃料を覆う被覆管が損傷して燃料の一部が溶けているが、燃料集合体としての形は維持していると説明していた。燃料が溶けて本来の形を維持していない状態と認めたのは初めて。

経済産業省原子力安全・保安院も、燃料が溶けて圧力容器の底にたまる「メルトダウン」が1号機で起きた可能性が否定できないとしている。

…もはや怒る気力も失せました。
…そうですか。

2011年5月4日水曜日

嫌な思い出

この時季になると毎年思い出すことがあります。

20年くらい前のことです。
知人が、ある著名な牧師に心酔していました。
そして、ある日、知人が所属していた教会でその先生を招くことが決まり、伝道集会の「ようなもの」をするので「来ない?」と誘われたのです。



実は、そのころ、私はよくその知人とその友人から祈られていました。
祈られていたと言えばクリスチャンとしてごく普通の話のように聞こえますが、その祈りは、自分の通っている教会では体験したことのない、ちょっと不思議なものでした。
彼女はその祈りをくだんの牧師界隈から教わったらしいのですが、
なんだか悪魔ばらいみたいなもので、
当時花粉症デビューしたてでうんざりしていた私を癒す特別な祈り…だと言っていました。

彼女の話によれば、
病はサタンによってもたらされるはずで、なんらかのひどい症状に悩まされるのはサタンがクリスチャンである私のことを憎んでいるからあり、神さまから引き離そうと思って攻撃してくるのだ、というのですね。
だから、私に働いているサタンの力?を縛れば?私は病から解放されるというのです。
神さまは私が健康であることを望んでいらっしゃる。だから、神の力で追い出そう…と。
イエスさまの弟子だって悪霊を追い出していたのだからクリスチャンに追い出せないはずはないでしょう?と。

神学校を卒業して教師をしている彼女が真面目な顔で言うのですから、受洗して数年の私は従うしかなく、
言われるがまま、なされるがままになっていました。

結局彼女とその友人がいくら祈っても私の身体には何の変化も起こらず、

まあ、ご利益宗教じゃないんだし、どう考えても、やればやったほど効果が上がるとかいうものであるはずはないから、と思い始めた矢先のお誘いでちょっと迷いましたが、

めったに会うことのできない「スゴイ先生」らしいので、「説教」目当てで出かけることにしたのです。




その日、私は知人の後にくっついて、教会の中に入っていきました。
さすがに有名な先生。かなり早く出かけたはずでしたが教会の中には既にたくさんの人が集まっていました。

集会が始まり、賛美歌を歌ったり聖書のお話が語られたり、私もよく知る伝道集会らしい普通なプログラムでしたが、ただ妙に進行が早い。
(お忙しい先生だから早く帰られるのかな?)
そんなことを考えていたところ、
会堂に集っていた人々がひとりひとり順番に伝道者の方の前に立ち祈ってもらうということになりました。
(個人的に交わろうとしてくれているのかな、こんなにたくさんいるのにすごいな)

と思った次の瞬間、

見たことのない光景が目の前で繰り広げられることになったのです。

伝道者の方が手を置き一言祈ると、次々に人々がバタバタ倒れていく!


怖くなって逃げ出したかったのですが、もうどうすることも出来ず、
しかし、せめて順番が遅くなるようにと後ずさりをして列の最後尾につきました。
(神さま、これって、どうなってますか?神さま私はどうなっちゃいますか?神さま、これはやばいことになったかもしれません。神さま、彼女はこれがキリスト教のあるべき姿だってささやいてますがそうなのですか?うわ~神さま、順番が来ちゃうよーどうしよう、助けてください!!)

祈ってもらうはずなのに、恐いよ神さま助けてーと心で叫び続けるよくわからない状況の中、
ついに私の番が!



牧師は私の前に立ち、私の頭に手を置いて何か言っています。
(イエスさま~!!!私も倒れるの??…ん?倒れないぞ)
さらに祈る牧師。
(どうしよう神さま、私倒れない。)
祈祷が続く…
(…え、倒れないぞわたし。もしかしてこれってまずいのか?)
さらに祈る牧師。
(まずい、このままだと帰れなくなるかもよ)
祈り、祈り、祈り…
(どうしよう、私が倒れないとこの集まりは終わらないんだよきっと。)

薄目を開けると、私の前に祈られた全ての人が倒れたままになっている。本当に霊的な働きであったとしても催眠術みたいなものだったとしても、私がここで倒れる決断をしなければこの人たちになにか悪いことが起こるかもしれない。


決心した。

…ガタガタガタッ
崩れてみた。
演技した。
大ウソついた。

そして…伝道集会が終わった。


「あー気分が良かった」
「すっきりしたねー」
起き上がった人々が口々に言っていました。
そして、なんと、知人(求道者)が、その身に起こった不思議な体験によって信仰告白し受洗する決心をしたのでした。
(うそだろー!?)


「あなたの中には何かがあった。他の人にはない何かを感じた。大変だった。」
伝道集会が終わった後、その牧師はわざわざ私のところに来てそう言いました。





帰り道、その夜見た光景と
信仰告白者がかなりの人数いたという事態を
どう受け止めたらよいのかわからなくなり
祈りました。

「神さま、私は今夜のことをどう受け止めたらよいでしょうか。キリスト教の教師の資格を持つ彼女はあれがキリスト教のあるべき姿だと言っていました。そしてその経験によってたくさんの方が信仰を持たれました。
しかし神さま、私にはほかの人のように何かが起こることはありませんでした。私の中に何かがあったと先生から言われました。何があるのですか?何があるというのですか?不信仰な思いですか?
私が花粉症であることを気の毒に思った彼女が一生懸命私から悪魔を去らせようとしていましたが私は治りませんでした。なぜ治らないのでしょう。彼らの言うことが正しいのだとしたら、私はきっと悪霊にとりつかれたままなのです。え?でも私は今いったいどなたに話しているのでしょう。悪霊に取りつかれたままでも祈ることができるのでしょうか???え?出来るんだっけ?あれ?悪霊がイエスさまとしゃべってたっけ?あれれ???」


混乱しながら祈っていると、心の中に一つの言葉が思い浮かびました。

「学んで確信したところにとどまっていなさい」

帰宅後、それが新約聖書の言葉であることに気付きました。


しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
テモテへの第二の手紙3章14節(口語訳)


そうだ。学んで確信したところにとどまるべきなんだ。


じゃあ、私はいったいどう学んでどう確信していたのか。


(…そうだ。一番大切なことを忘れていた。私の中には聖霊さまが住んでおられるんだ!変なものがとりついているはずがないんだ。
悪霊と聖霊が同居しているのはおかしい。そうか、もし何かを追い出す祈りをしていたのだったら、私は倒れるわけないんだ。追い出すものがないんだから!)






あれから20年。花粉症がひどくなる季節が来るとあの夜のことを思い出します。
大嘘をついてしまったこと、…本当に申し訳なく思っています。
私が倒れさえしなければ
良くも悪くも集会の流れは変わっていたかもしれない。
一生懸命祈ってくださった牧師さんと知人にも…ゴメンナサイ。
あの時、私の身には何も起こらなかったのに起こったふりをしました。
私が倒れさえしなければ、

たくさんの人の人生が変わっていたかもしれない。

でも、本当にどうしようもなかった。本当に怖かった。


あれが原因ではありませんが、知人にはもうずいぶん長い間会っておりません。




その後あの件について考えていたとき、こんなみ言葉を読み

…そうだよね、と思ったのでした。

七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
ルカ10章17~20節




2011年4月3日日曜日

思っていても「言えなかった」ことを聴いてしまった

4月2日付のBBC
"Japan earthquake: The search for 'contaminated' bodies"というタイトルの動画を見ました。
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-12945713
動画は日本のニュースでも使われていた自衛隊と米軍の大規模捜索の映像からスタートします。



でも、日本のニュースではおそらく現段階では絶対に流されないであろう東京大学のYasui教授のインタビュー映像が途中で挟み込まれていました。


意図的なのかしら。
「あの地域はしばらく人が住めないかもしれません…ですね…」
という教授の言葉の部分だけ日本語が残され
そのあとに続く言葉には教授の言葉を英語に訳したらしい音声がかぶせられます。

「…福島原発周辺の地域は、長期にわたって使用できない住めないと思う。完ぺきに戻すにはおそらく30年」
It may take 30 years for the area around Fukushima to become fully habitable again, Professor Itaru Yasui of Tokyo University has said.


そうか…。やっぱりね。





最近、ずっと
枝野さんとか菅さんの記者会見を聴きながら、
そして
池上さんの解説する番組とかを見ながら
戦中の日本のことを考えていました。

私たちは今
本当のことを知らされているんだろうか、と。


昔と違って
ネットがあるから多少は違うとは思うけれど。





大丈夫なのかな…日本。

黄砂が飛んでくるのだからけっこう重いものも飛んでくるでしょう

放射線量じゃなくて、放射性物質が飛散してくる量や堆積していく量のデータが欲しい。汚染の実態。地図で。国はデータを持っていないのでしょうか。



ところで、最近黄砂の量がすごくありませんか?
それどころじゃないので報道もされませんし、なんだか観測されてないみたいな感じですが。
ウチの車は少し前から大変なことになってます。
こんなに砂が飛んでくるんじゃ
相当重い放射性物質も飛んできそうです。
プルトニウムとかね。
大丈夫なのでしょうか。
…大丈夫じゃないんだろうな。

2011年3月20日日曜日

支える者の足を

 群馬の小中学校では学校給食が計画停電等の影響でつくれず、パンと牛乳だけの簡易給食であるとか、お弁当持参であるとかという状態です。

ところが、これがちょっとした問題となりました。
簡易給食の場合、通常の給食と比べてカロリーが低くなることや栄養バランスが悪いため、補助的な食品を家庭から持参することにさせた学校があったようなのですが、これについて
「被災地のことを思えばパンと牛乳で十分ではないか」という意見を述べる人があって簡易給食だけにしたのだとか。


未曾有の災害。こういう事態になるとちょっとしたことが大問題になるわけで、…とくに、こういった状況ではある種の精神論を語り出す人が大勢出現します。

もちろん、物が本当にないのなら「被災地のことを思って」贅沢なことは出来ないわけですが、
政府の言葉を借りれば物は潤沢にあるわけですから物資の届く地域の人間が物を食べて何が悪いのか、ということです。

むしろ被災していない地域は、しっかり立たなければいけません。
しっかり立っていない者が倒れた者を起こすことなど出来ないのです。
しっかり立っていなければ、共倒れになります。

テレビやラジオでたびたび流れる公共広告で強調される「思いやり」という言葉。この言葉は「同情して同じような状況に自分を置く」という事ではありません。
相手の気持ちを理解するために、時には手足におもりを付けたりするシニア体験であったり、1食を抜いて飢餓にさらされている人々のことを想像するという学習は必要なことではあります。しかし、食べられる環境にある育ち盛りの子どもが被災地を理解するという名目で腹を減らし続けるということが果たして必要であるのか、私には「必要である」という意見が理解できません。
だって、誰もがわかっているように、被災地に食料が届かないのは私たちが食料を食べ過ぎているからではないのですから。


状況的に立つことが出来る立場に置かれた者は、恥じることなく、遠慮することなく、むしろ率先してしっかり立つべきだと思います。
立てる者はしっかり立って、足を踏ん張って一生懸命手をさしのべるべきです。


震災によるいろいろな影響で、群馬県もいろんな産業に支障が出ています。
材料の調達が出来ないとか停電であるとか物理的にやむを得ないことについてはやむを得ないものとしてあきらめざるをえないこともありますが、
この、子どもたちの給食の事例のように、苦しみを共感するというような理由で
「こんな時に不謹慎だ」という発想での意見を気にして中止や自粛を続けるのは良くないと思います。

これは被災地を無視するとか、忘れるとかとは違います。
日本の国民として、この国を立て直す強い思いを持ってそれぞれの仕事を役割を果たさなければいけないということです。一生懸命に稼いで、見合った税金をきちんと納め、復興させるのです。
それぞれが自分の役目を果たしていくことでこの地震によって失ったものを取り返し、さらなる発展をさせようじゃありませんか。