2023年5月23日火曜日

箴言5章18節

箴言5章を読んでいました。
箴言5章18節の
「あなたの泉に祝福を受けさせ、
あなたの若い時の妻を楽しめ。」(口語訳)
 
 
なぜ突然妻の話が登場するのでしょうか。
 
 
日本語の聖書さまサイトより口語訳の箴言5章を引用させていただきます。
 
5:1わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、
わたしの悟りに耳をかたむけよ。
5:2これは、あなたが慎みを守り、
あなたのくちびるに知識を保つためである。
5:3遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、
その言葉は油よりもなめらかである。
5:4しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、
もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5その足は死に下り、
その歩みは陰府の道におもむく。
5:6彼女はいのちの道に心をとめず、
その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7子供らよ、今わたしの言うことを聞け、
わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8あなたの道を彼女から遠く離し、
その家の門に近づいてはならない。
5:9おそらくはあなたの誉を他人にわたし、
あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、
あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11そしてあなたの終りが来て、
あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12言うであろう、「わたしは教訓をいとい、
心に戒めを軽んじ、
5:13教師の声に聞き従わず、
わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14集まりの中、会衆のうちにあって、
わたしは、破滅に陥りかけた」と。
5:15あなたは自分の水ためから水を飲み、
自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。
5:16あなたの泉を、外にまきちらし、
水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
5:17それを自分だけのものとし、
他人を共にあずからせてはならない。
5:18あなたの泉に祝福を受けさせ、
あなたの若い時の妻を楽しめ。
5:19彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。
いつも、その乳ぶさをもって満足し、
その愛をもって常に喜べ。
5:20わが子よ、どうして遊女に迷い、
みだらな女の胸をいだくのか。
5:21人の道は主の目の前にあり、
主はすべて、その行いを見守られる。
5:22悪しき者は自分のとがに捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
5:23彼は、教訓がないために死に、
その愚かさの大きいことによって滅びる。
 
 
 
 
何か手掛かりがあるかもしれないと思ったので久しぶりに新改訳のチェーン式聖書を引っ張り出してきましたが
比喩的表現 自分の妻によって満足すべき というようなことが書いてあるだけです。
まあ、これでもなんとなくわかったような気もしますし、要は貞操を守ればいいのかもしれませんし、
気にしなくてもいいのかもしれませんが
 
以前「詩篇19篇」が
新改訳聖書だけで読んでいたころには前半と後半に分かれた二つの詩のようにしか思えなかったのですが、新共同訳を読んだらひとつにまとまってしまったという経験もありますので

一応調べることにしました。
 
で、日本聖書協会の本文検索を使わせていただいて
聖書協会共同訳聖書で「若い時の妻」という語を検索してみたところ
4か所がヒットしました。
(口語訳だとイザヤ書が抜けるので3か所)
箴言5章18節
あなたの泉は祝福されよ。
あなたの若い時の妻から喜びを得よ。

イザヤ書54章6節
捨てられて、心を痛めた妻を呼ぶように
主はあなたを呼ばれる。
若い時の妻を見捨てることなどできようか
――あなたの神は言われる。

マラキ書2章14節
あなたがたは、「なぜなのか」と言う。それは、主があなたとあなたの若い時の妻との間の証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。

マラキ書2章15節
主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。
若い時の妻を裏切ってはならない。
 
 
「若い時」という表現が特別な意味を持つか、「若い時の妻」と言う言葉がそのまとまりでなにか特別な意味を持つのでは、と期待していたのですが
…難儀ですw 
 
箴言5章のところは
まずは遊女の危険な話から入っていくわけですけれども
この「遊女」と言う言葉は、文字通りの「遊女」をあらわしてはいるでしょうけれども、同時に霊的な意味での遊女というか
まことの神さまと人とのかかわりにおいて、その間に入り込もうとする誘惑者(エデンの園でいうところの蛇)というか
そういうものの存在についての警告のように聞こえるわけです。
 
というような視点を持って読んでいたので、
「若い時の妻」という言葉にはヨハネの黙示録2章4節の「初めの愛」と共通するようなものがあるのではないか、と考えたわけです。
つまり、
水ため、井戸、泉、の話というのは
ヨハネによる福音書の4章14節や
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
ヨハネによる福音書7章38節のことで、
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
 
箴言5章16節
あなたの泉を、外にまきちらし、
水の流れを、ちまたに流してよかろうか
とか
17節で
それを自分だけのものとし、
他人を共にあずからせてはならない。
 
と言っているのは
地域的な問題として水が不足しているからとか、けち臭いことを言っているわけではなく、
この箇所で語られている「水」とは個々別々に与えられるもの、というか
個人個人特別に与えられた特別なものであって
それは与えた方との特別な関係性、一対一の婚姻契約のような強い結びつきによるものであって
ほかの変なやつがその間に入り込んでちょっと分けて~と言っても分けてもらうことのできないもので
ちょうど、マタイ25章の10人の乙女の油が「分けられない」というあの状況みたいな
そういう特殊なものであるということなのかなあ・・・とまずは思い、
 
そして、その特殊性というのは
イエスさまを信ずる=創造主なるまことの神さまとの断絶した関係を創造の初め(エデンの園から追放される以前の状態)に戻されたということによるものであり、
そうなった結果、永遠の命に至る水が与えられて湧き出すようになったのだけれども、
まだこの世界に存在している誘惑者の誘惑は継続しているため
たとえば、アメリカはいったいどうなってしまうのか、というような不安な今の世の中にあり、たとえ聖書信仰を持っていたとしても何の良いこともないじゃないか、とか思ってしまうようなこともなくはないので、
そうなるとイザヤ書8章19節のような
人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」
そんな誘惑に心を動かされてなびいてしまうこともあるかもしれず
 
 
・・・いや、そういう話ではなくむしろこういうパターンだろうか
 
主のゆえに水を豊かに持っている(実生活で豊かである)人が
その水のゆえにたくさんの悪い女が誘惑してくるのを拒まず、
水を外(外の女)にまきちらす・・・?
その結果として
主から心が離れていって
 
その結果として泉が枯れてしまう・・・?
 
 
 
 
だから水と妻が並列するのかな・・・???
 
 
 
 
(・・・また「祝福」バラク、バルーク出てきた・・)
 
 
 
箴言は1章の初めにこう書いてあるのですが
ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
箴言自体が「なぞ」となってしまう
愚かなワタクシでございます(;´Д`A ```
 
 
ちなみに、若い時の妻の「若い」という言葉は
 Strong's Hebrew 5271 נָעוּר
naurで、
Strong's Concordanceには
Definition: youth, early life
と書いてありました。
 
 
early life
そうかこのニュアンス!