2017年7月8日土曜日
仮庵
新改訳だけをウン十年間読み続けたのち、突然通読用の聖書を新共同訳聖書に替えてヨハネによる福音書を読んだとき、それまで全くその存在に気づきもしなかった「わたしはある」ということばが何度も登場していて衝撃を受けたわけですが、このところ読んでいる詩編の箇所でも「仮庵」ということばが登場し、驚いています。
まず、詩編27編5節のところにこういう御言葉があります。
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。」
で、ここは、新改訳では
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい」
となっているわけです。
まあ、「幕屋」ということばが登場するのだから、どちらの訳で読んでも出エジプト記の一連の出来事を思い起こせるのかもしれませんが、新改訳でこの箇所を読んでいたころの私の脳内では、まず「隠れ場」という何らかの場所というものをイメージするわけです。洞窟だか木の陰だか岩の陰だか、そういう身をひそめるにふさわしい何かがそこにあることを想像するわけです。で、続いて登場する言葉「その幕屋のひそかな所」をどう関連付けるのか一瞬迷うのです。また、「その幕屋」の「その」は「主の」という意味なのか「隠れ場の中の」という意味なのか、もしくは「隠れ場に隠し」と「ひそかな所に私をかくまい」は同義であって単なる言いかえなのか・・・とか。
で、わからないから私の脳内ではこう考えることにしていました。
「要するに、大変な時には守ってくれるということ」
もちろん、そうなのかもしれません。それでよいのかもしれません。ダビデと私は文化的背景が違うわけですから、「要するに」どうであるのか、それさえわかればよいのかもしれません。
しかし、です。新共同訳で読んだこの節に「仮庵」ということばを見つけたとき、私の「要するに」という理解と「ダビデの言いたいこと」は違うのかもしれない、と思ったのですね。
「仮庵」と聞くと「仮庵の祭」を思い出すわけですが、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがモーセに率いられてエジプトを出、荒野で過ごしたときの天幕、それが「仮庵」ですよね。
つまり、「仮庵」ということばによってあの時のあの主、あの神さまが、あの時と同じように今の自分にもしてくださるのだ、と、ダビデは信じ告白している。すべてはあそこから始まっている、根拠はそこにあり、自分はそれを信じているのだ、と。
私が脳内変換したような「要するに」「神さまは守ってくださる」のではない。
私がもしダビデの詩を読みアーメンと言うのなら、私自身もあの「ユダヤ人たちをエジプトから脱出させてくださった」神さまであるというところまでを考えるべきなのではないか、と細かいことがとても気になる今日この頃。
いけにえよりも
しかし神は悪しき者に言われる、
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、
わたしの契約を口にするのか。
あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。詩篇50篇16、17節
日本語の聖書サイト様から口語訳聖書を引用させていただきます。
このところずっと新共同訳で詩編を読んでいます。
冒頭に引用した聖句は口語訳詩篇50篇16、17節のところですが
神さまが悪い者に向かって語られる言葉、とても恐ろしく思いました。
なぜならば悪しき者が口にしているのは神さまの定めと契約だからです。
神さまの教えを憎み、神さまの御言葉を捨て去ったにもかかわらず
悪しき者は神さまの定めと契約を口にしているのです。
『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るわけではないとは福音書でも聞いているところですけれども、本当に怖い。
しかし神は悪しき者に言われる、
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、
わたしの契約を口にするのか。
あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。
神さまがあえて
「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、わたしの契約を口にするのか」
と問われていることを考えれば、きっとこの人は御言葉を取り次ぐような働きをしているのです。一般人がことわざのように御言葉を語るのではなく、権威があるような顔をして、「これが神さまの御言葉だ!」と偉そうに語っているのかもしれません。
新共同訳でここを読むとこうなっています。
神は背く者に言われる。
「お前はわたしの掟を片端から唱え
わたしの契約を口にする。
どういうつもりか。
お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。
新共同訳の翻訳では、この人は掟を片端から唱えている!というのです。
今の日本で考えてみてください。御言葉を片端から唱えているような人がいた場合、私たちはどういう印象を持つでしょう。少なくとも、普通のクリスチャンの見立てとして、御言葉を片端から唱えているような人に対して抱く印象は、
このひとはおそらく御言葉をよく知っている=熱心なクリスチャン=交わりを持っても安心安全!
ではありませんか?
ところが、人の内側をご覧になる神さまにはそう見えないわけです。
パッと見、聖書に詳しいのであろう、神学に明るいのであろうこの人のことを
悪しき者、背く者と呼ばれる。そして
「あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。
お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。」
とおっしゃるのです。
そして、18節以下で具体的な問題点を指摘されます。
50:18あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、
姦淫を行う者と交わる。
50:19あなたはその口を悪にわたし、
あなたの舌はたばかりを仕組む。
50:20あなたは座してその兄弟をそしり、
自分の母の子をののしる。
50篇の18節~20節を引用したところで、
ふと詩編1編が思い出されました。
1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
これは口語訳聖書の詩篇からの引用になりますが、
新共同訳によると詩編1編2節のところはこう訳してあります。
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
詩編1編で描写されている人も新共同訳によれば御言葉を口ずさんでいるのです。おそらく私たちの目には詩編50編の悪しき者との区別はつけにくいのです。
しかし結ぶ実が決定的に違う。
50:18あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、
姦淫を行う者と交わる。
50:19あなたはその口を悪にわたし、
あなたの舌はたばかりを仕組む。
50:20あなたは座してその兄弟をそしり、
自分の母の子をののしる。
1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
そして神さまはこう語られます。
50:21あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、
あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。
しかしわたしはあなたを責め、
あなたの目の前にその罪をならべる。
50:22神を忘れる者よ、このことを思え。
さもないとわたしはあなたをかき裂く。
そのときだれも助ける者はないであろう。
50:23感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。
自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す」。
50章23節のところを新共同訳ではこう訳しています。
告白をいけにえとしてささげる人は
わたしを栄光に輝かすであろう。
道を正す人に
わたしは神の救いを示そう。
神さまを信じ、救い主を自分の救い主として受け入れた人であっても律法からずれることなく歩める人はいません。
神さまは、罪を言いあらわし悔い改める人の罪をゆるしてくださるお方です。
50:8わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
50:9わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
50:10林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
50:11わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
50:12たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
50:13わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果せ。
50:15悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう」。
50章8節から15節のところを読むと、「感謝のいけにえ=告白=罪を悔いて言い表す」についての神さまの御思いが一層よくわかります。
ただ、この論理の展開には爆笑してしまいました。
神さまはたとえ飢えるほどお腹が減ってもお前に要求なんかしないよーと。だって、獣だって家畜だってそもそも神さまのものなんだし、もっと言えば、神さまは雄牛の肉を食べたり雄やぎの血を飲みたいからいけにえにしなさいなんていってるわけじゃないんだからね、と。いけにえってのは、飢えた神さまの食欲を満たすためにやれと言っているわけじゃないよ、と。何ともわかりやすくユニークな説明。
神さまの御言葉を唱えるという行為は、それを語られた神さまご自身の御心に思いを巡らせるということ。
そして神さまご自身の御心に思いを巡らせるという行為は神さまと親しく語り交わるということ。
まさに御顔の救いですね。
27:7主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、
聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8あなたは仰せられました、
「わが顔をたずね求めよ」と。
あなたにむかって、わたしの心は言います、
「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
27:9み顔をわたしに隠さないでください。
怒ってあなたのしもべを退けないでください。
あなたはわたしの助けです。
わが救の神よ、わたしを追い出し、
わたしを捨てないでください。
詩篇27篇7~9節
今日のまとめ
21:2人の道は自分の目には正しく見える、
しかし主は人の心をはかられる。
21:3正義と公平を行うことは、
犠牲にもまさって主に喜ばれる。
箴言21章2、3節