2017年2月3日金曜日

【調べ学習】神殿について

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一3章16節

一コリントの通読をしております。3章を読んでいる中で「神殿」という言葉が気になったので今日は神殿についてBIBLE HUB http://biblehub.com/を使わせていただいての調べ学習をしようと思います。

まずは英語から
NIVでは
Don't you know that you yourselves are God's temple and that God's Spirit dwells in your midst?

とあり、神殿はGod's templeという風に訳されています。
で、ほかの訳ではtemple of GodとかGod's sanctuary、sanctuary of Godなどと訳されていますが、God's templeまたはtemple of Godというのが多数派です。
 
次にギリシャ語templeに該当するところは
ναὸς (naos)という語で
新約聖書全体では
ναῷ で 8回 
ναοῖς で 1回 
ναὸν で 13回
ναὸς という形で 10回
ναοῦ で 12回
ναοὺςで 1回
 
「ναὸς」が使われている御言葉は(日本語の聖句は新共同訳から引用しています)
 
マタイ2:17「黄金を清める神殿
ヨハネ2:20「この神殿を建てるのに46年も」
一コリント3:16「自分が神の神殿であり」
一コリント3:17「神の神殿
一コリント6:19「聖霊が宿ってくださる神殿
黙示11:19「天にある神の神殿
黙示15:5「天にある証しの幕屋の神殿
黙示15:8「この神殿は、神の栄光と」
黙示21:22「主と子羊とが都の神殿
 
 
そして、
Thayer's Greek Lexicon
STRONGS NT 3485: ναός
によれば、
このギリシャ語はヘブル語の הֵיכָלに該当する言葉で、
BIBLE HUBによると
 הֵיכָלという形で登場するものだけをピックアップした場合
24箇所あって、
 
サムエル上1:9「祭司エリは主の神殿の」
列王上6:3「神殿の外陣の前にある前廊」←(注)KJVではtempleと訳しているが、ほかの英語聖書でnaveと訳しているものもある。
列王上21:1「アハブの宮殿
列王下18:16「主の神殿の扉」
歴代下26:16「主の神殿
歴代下27:2「主の神殿
エズラ3:10「神殿の基礎」
エズラ4:1「イスラエルの神、主のために聖所を」
詩編5:7(新改訳では詩篇5:8)「聖なる
詩編79:1「聖なる神殿
詩編138:2「聖なる神殿
詩編144:12「宮殿の飾り」
エレミヤ7:4「主の神殿、主の神殿、主の神殿」←(注)エレミヤ7:4については同一の節に3回「神殿」という言葉が出て来るが、24箇所のうちの3箇所とカウントされている
エレミヤ24:1「主の神殿
アモス8:3「宮殿の歌い女」←(注)KJVでは And the songs of the temple shall be howlingsとなっていて、הֵיכָלをtempleと訳している。新共同訳ではpalaceという解釈で訳している。
ヨナ2:5(新改訳ではヨナ2:4)「聖なる神殿
ヨナ2:8(新改訳ではヨナ2:7)「聖なる神殿
ハガイ2:18「主の神殿の基」
ゼカリヤ6:12「主の神殿
ゼカリヤ6:13「主の神殿
 
 
 
 
 
つぎに、新聖書辞典(1985年9月20日発行 いのちのことば社出版部)で神殿について調べてみました。
以下、興味のある所だけ抄出
 
 

エルサレム神殿

ソロモンの神殿(第1神殿)

幕屋の規定に基づいている
神殿は建物そのものが大切なのではなく、その中に納められている神の言葉としての律法(トーラー)が重要 トーラー中心主義
神殿建築の完成は、出エジプトをイスラエルに経験させられた神ご自身の御名のため(列王上8:15~21)
創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大な方(列王上8:23~27)
原則的には民は神殿に来て祈りをささげなければならない。
 
 

ゼルバベルの神殿(第2神殿)

70年間に及ぶバビロン捕囚の後に、神の主観的摂理のもと、バビロンの地に捕囚となっていたイスラエルの民が故国ユダの地に帰還し、破壊されていた神殿を再建した。
 
 

ヘロデの神殿(第3神殿とも呼ばれ得る)

その建築は前20年頃に開始され、だいたいの構造は約2年ほどでできあがったが、完成までには約50年近く要したと考えられる。(参照ヨハネ2:20)
新約聖書におけるヘロデの神殿への言及は100回あまりに及ぶ
新約聖書で一般に「神殿」「宮」と訳されている語はギリシャ語では2種類あるが、・・・明確な区別はされていない。
至聖所を含む場所で、祭司以外は入ることのできない神殿の部分を指す場合には通常ナオスが用いられている。それに対して、神殿全体を指す場合には通常ヒエロンが用いられている。
新約聖書では、イエスの教えの中などで「神殿」「宮」が用いられている場合がある(マタ12:6、ヨハ2:19)
「神の神殿」をアナロジーとして用いている場合もあるが、その場合は必ずしもヘロデの神殿を指すと考える必要はない(Ⅰコリ3:16-17、6:19、Ⅱコリ6:16等)
 
 
 
 
 
 

新約聖書で気になった神殿という言葉

 

福音書

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 マタイ21:12
 
 
「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 マタイ26:61
 
 
言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 マタイ27:40
 
 
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 マタイ27:51
 
 
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 マルコ13:3
 
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 ルカ24:53
 
 
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 ヨハネ2:21
 
 

使徒言行録

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、使徒2:46
 
 
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。使徒3:1
 
 

パウロの書簡

 
 
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリント第一3:16 
 
 
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 コリント第一3:17
 
 
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 コリント第一6:19
 
 
 
神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 コリント第二6:16
 
 
 
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 エフェソ2:21
 
 
この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。 テサロニケ第二2:4
 
 
 

ヨハネの黙示録

 
勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。 黙示3:12
 
 
それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 黙示11:5
 
 
しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。 黙示11:2
 
 
そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。 黙示11:19
 
 
すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」 黙示14:15
 
 
また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。 黙示14:17
 
この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。 黙示15:5
 
 
そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。 黙示15:6
 
 
この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。 黙示15:8
 
 
また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」 黙示16:1
 
 
第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。黙示16:17 
 
 
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 黙示21:22
 
 
 
 

旧約聖書(預言書)で気になった神殿という言葉

 
 
 
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。 イザヤ66:1


それゆえ、お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。 ヨエル3:12
 
 
その日が来ると 山々にはぶどう酒が滴り もろもろの丘には乳が流れ ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て シティムの川を潤す。 ヨエル4:18
 
 
 
エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。 ゼカリヤ14:21
 
 
 
 

神殿について考えさせられる箇所


彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。ダニエル11:31
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。ヨハネ4:21
 
 
 
 




 

 

 

コリント信徒への手紙第一の3章16節17節

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 

私は30年近く新改訳聖書だけを読んでいたので、新共同訳で「神殿」と訳されている箇所はおもに「神の宮」と訳されていまして、その言葉からイメージしていたのは家の近所の小さい神社。
しかし、上で調べて分かったのは、「神殿」というギリシャ語は王様の「宮殿」を表現する時にも使われる言葉ということで、ほんとうに驚きました。

私のような田舎在住の引きこもり日本人おばさんが、自分の人生経験だけで聖書を読みながしては絶対イカンとあらためて思いました。


パウロはコリント教会の信徒に対して何度も繰り返して「あなたがたは神の神殿」だと言っています。
さらっと読み流しているだけだと、「何度も繰り返して言っている」ということに気づきにくいのですが、書き出してみると、とてもしつこく念を押されている気分になります。



あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリント第一3:16



神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 コリント第一3:17



知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 コリント第一6:19




神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 コリント第二6:16


あなたがたは神殿、あなたがたの体は神殿、わたしたちは生ける神の神殿だ、繰り返し語るパウロの言葉に、
まずは前述の小さい神社から神殿へと言葉のイメージを改めた自分が真っ先に感じたことは、
「私ってものすごい価値がある感じ~~」ということです。


「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という御言葉がイザヤ書にあるので、セルフイメージの徹底的に低い私ではあっても「信仰によって」これまでもとりあえずは「高価だって神さまが言ってくださってるんだからとりあえず尊いと思う」と考えてはいたのですが、小さい神社から神殿に代わったことで、査定価格が一気に上昇しちゃった気がしました。( *´艸`)



そして、



パウロは一コリント3:16において、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」と語って信者個人の内に聖霊さまが住んでくださっていると確認したうえで


二コリント6:16では「神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語り、


トーラーから引用することにより
(おそらく引用された箇所はここのあたりだと思います↓)

これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。 出エジプト記29章42~46節


わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。レビ記26章11、12節


「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。」、「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き」という、
個人ではない複数の人々の「ただ中」「間」におられる神さまでもあられる、ということを教えます。
つまり、「私」の神さまであると同時に「私たち」の神さまであるのだ、と。


で、エレミヤ書31:1にもこう書かれていて、
そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる

神さまはイスラエルのすべての部族の神さまです。


イエスさまもこんなことをおっしゃっていましたね。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

ヨハネによる福音書の14章で主を愛し主の御言葉を守るもの(個人)に聖霊さまを与えてくださると約束してくださった主は、約束通り私たち一人一人の内に聖霊さまを与えてくださり、また同時に信じる者たちの集まりのただ中にいてくださる。




だからこそこうなるわけです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一12章27節


心臓や腎臓、肝臓といった体の器官がそれぞれに完成された優れた機能を持つものであるが
孤立して存在するのではなく、つながることによって大きな一つの体として完成される。
それと同じように、私たちは神さまが中に住んでいてくださる神殿で、一人一人それぞれに完成され優れた素晴らしいものであるが、同じ主を内に持つということによって一つであり、また、バラバラにあったものが主のゆえに「つながる」とき、まさにそのただ中に主は宿り、その者たちの間を主は巡り歩かれる。主を信じる者全ての者たちの神さまであるのだ、とパウロは教えてくれるのです。
そう、イエスさまも言っておられました。ヨハネによる福音書15章で主はぶどうの木でわたしたちは枝だと。また、同じくヨハネによる福音書の17章で主は祈ってくださいました、「父よ、あなたが私の内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と。
そうです、私たちは別々のようであって一つです。離れているようであって分かれているようであって、しかし私たちの中にあなたがいてくださることによって決してバラバラなものではないのです。


勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。
ヨハネの黙示録3章12節a

とヨハネが語ったように私たちはこの地上の幕屋を脱ぎ捨てた後、皆で真の主の神殿を構成するものとなるのです。



ところで、
新聖書辞典にはソロモンの作った神殿について、こんなことが書かれていました。(抜き書き)

ソロモンの神殿(第1神殿)
幕屋の規定に基づいている
神殿は建物そのものが大切なのではなく、その中に納められている神の言葉としての律法(トーラー)が重要 トーラー中心主義
神殿建築の完成は、出エジプトをイスラエルに経験させられた神ご自身の御名のため(列王上8:15~21)
創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大な方(列王上8:23~27)
原則的には民は神殿に来て祈りをささげなければならない。


で、列王記上の8章から9章のところをささっと読んでみたのですが


9章1~9節にこう書かれています。


ソロモンが主の神殿と王宮の建築を終え、造ろうと望んでいたものすべてについての念願を果たしたとき、主はかつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ、こう仰せになった。
「わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。この神殿は廃虚となり、そのそばを通る人は皆、驚いて口笛を鳴らし、『この地とこの神殿に、主はなぜこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう。そのとき人々は、『それは彼らが自分たちの先祖をエジプトの地から導き出した神、主を捨て、他の神々に付き従い、これにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らの上にこのすべての災いをもたらされたのだ』と答えるであろう。」

ソロモンの祈りを聞いていてくださった神さまは、ソロモンに対してきちんとしたお答えをくださったのですね。上の、辞書で調べた文章にも書いてありますが、創造主である神は、人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大なお方ですよね、でもソロモンの願いを主は聞いてくださった。で、今日(こんにち)第一神殿として知られるソロモンの神殿が神殿として認められた。


しかし、神殿は…。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%A5%9E%E6%AE%BF


そしてバビロン捕囚から帰還後にできたゼルバベルの神殿(第2神殿)
…西暦70年のエルサレム包囲戦においてエルサレムと第2神殿は破壊


さらに新約聖書でたびたび言及のあるヘロデの神殿(第3神殿とも呼ばれ得る)
…今は「嘆きの壁」(ヘロデの神殿の西側の壁らしい)壁の前が礼拝の場所になっている


神さまにはわかってらしたんでしょうね…あの時から。




ところで、最近、
いや、以前からよく聞く話ですが、


新しい神殿が建つの建たないのという話があって、




まあね、
建てたい人は建てたいんだと思いますけれども
どうせそういう人は、神さまのご意向!?なんて関係ないんでしょうし
だって、すでにメシアは来たんだし
メシアを受け入れた人に神殿はいらないですからね。
だって、パウロが何回も言っている通り自分自身が神殿ですから。
コリントの信徒への手紙だけでなくエフェソの信徒への手紙でもパウロはこんなことを言っています。
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 エフェソ2:21 
また、イエスさまがこんなことをおっしゃっていたこともありました。

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。ヨハネ4:21
神殿(建築物)…ね。

建つか建たないか、
建った方がいいのか建たない方がいいのか
よくわかりませんけれど

神殿(人間)…がね

すでに建っていると言えば建っているわけで、
まあ建っちゃってるという話になると解釈がいろいろ変わるんだと思いますけれども



学問を修めた訳知り顔の人が何を言ったとしても
所詮「人」ですからね。気を付けなければ。
知りたければ直接神さまに求めていけば
時が満ちたら絶対教えていただけるはずなので
こういうことは人に期待せず直接神さまに尋ねようと思っています。


大きい小さい

コリントの信徒への手紙一1章21節

神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった


新改訳第3版でここはこう訳されています。

神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた 

「宣教という愚かな手段」、「宣教のことばの愚かさ」、というパウロの言葉を繰り返し読みながら
「神さまというお方は、いつもこうなのだ」
と思いました。

そもそも、
神さまはイスラエルを、強く大きく期待大だったから選んだのではなく、むしろ彼らが貧弱だったから選んだのでありました。(申命記7章6節参照) 
いつも神さまは、人間が好んで選びそうな「効率が良い」とか「体裁が良い」とか
そういうのとは真逆を行かれます。

主は
小さくて弱いものを
ご自身の御力によって
大きく大きく強く強くしてくださる。
そして主は、
幼子、乳飲み子の口によって力を打ち建てられる。

 



「大きく大きく」とタイピングしながら、
マグニフィカティオ」という言葉を思い出しました。
イエスさまのお母さんであるマリアが神さまをほめたたえる「マリアの賛歌(マグニフィカート)」ルカ1章46節。マリアの最初の言葉「わたしの魂は主をあがめ」というのはラテン語で、マグニフィカティオ=大きくする

神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく

賛美とは本来そういうものなのですね。

賛美とは
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
ということ。

 
 

そう書きながら
今度はミカ書6章8節が思い出されたのでありますが

人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。 



「へりくだって神と共に歩む」とは
ちょうど「神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく」と同じ意味であって
そういう中で神さまは
小さくて弱い私たちをご自身の御力によって大きく大きく強く強くしてくださる。




ところで、
聖書には「大きくて強い」と思い込んでいた教会の話が書かれていました。
黙示録に登場するラオディキア教会。

ラオディキア教会と言えばなまぬるいというイメージがありますが、
なまぬるいということだけでなく、神さまはこの教会に対してこんな指摘をされていました。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

この御言葉を読んでわかることは、
神さまの語られる豊かさというのは人間の考えている豊かさとは違うらしい、ということです。
それは、同じく黙示録に登場するスミルナ教会に対する御言葉でもわかります。

わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。


そしてそれは有名な山上の説教でもわかることです。
貧しい者は幸いだと語られ
悲しむものは幸いだと語られた主。

そしてイエスさまは
小さく貧しい人の友、罪びとの友となってくださり
小さく弱いものをご自身の力で大きく強くしてくださいました。


この世で人は強い人にすがり、金持ちに媚びて友となろうとするけれども
神さまはそうではない、
この世で人は賢い人を優れたものとし知恵ある人を称賛するけれども
神さまは人々からさげすまれるような者たちの友となられるのだ、と
人となられた神さま=イエスさま はご自身の行いをもって教えてくださったのです。



ここでもう一度「ラオディキア教会」の箇所を引用します。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 


ラオディキア教会に
主はこう語りかけられます。
クリスチャンの群れである教会に
主はこう呼びかけておられます。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 


主は教会の外におられるのです。そして教会の戸口をたたいておられる。

主は「大きくて強い」と思い込んでいる「クリスチャンたちに」こう呼びかけておられるのです。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう、と。
主を閉め出している教会
 
なんとおそろしい。
 
でもおそらく、本人たちには自覚はないのです。