2015年8月30日日曜日

モミの木の形態変化の話に研究者の良心を見た

帰宅困難区域のモミの木について、主幹が欠損した二股様の形態変化が多く観察されたという研究結果を報道していました。




47newsによれば
http://www.47news.jp/CN/201508/CN2015082801002062.html


「調査は環境省の依頼で実施。環境省は事故後、約80種類の野生動植物で放射線の影響を調査しているが、実際に影響がうかがわれる事例が確認されたのは初めて。」


何故その80種類を調べようと思ったのかという調査対象生物の選定行動、そして、同一種であっても私たちの顔が異なるように生物の形態にはある程度の多様性があるのでどの程度の変化を異常と判断するのかという基準によって結論は大きく変わりますが、このような公的な情報は少ないものなので、貴重なデータとして頭に叩き入れなければなりません。
…ただ、裁判等で何かの因果関係を証明する資料とはなりえないとは思いますが。




朝日新聞の記事を読むと
http://www.asahi.com/articles/ASH8X55ZLH8XULBJ00M.html?ref=chiezou

「空間線量が最も高い大熊町で9割以上が変化、浪江町では4割強、3割弱と変化率が減少するものの、北茨城市でも1割弱で変化があった」

ということで


まずは調査の大前提を確認しましょう。


放射線は生物の形態変化を起こしうる


そう思っていたからこそ時間とお金をかけて調査をしたわけですね。
原発事故以来この辺りまでが揺らいでいるような錯覚を一般人はおこさせられていますのでね、ここはきちんと押さえなければいけません。

放射線は形態変化を起こしうるという言葉は言い換えれば、

放射線は細胞内の小器官を破壊し細胞を破壊しうるものであり
(だからそもそもガンの放射線治療というものがある)
遺伝子の変化を起こしうるということです。



遺伝子は動物も植物も人間もみんな同じ「DNA」というものから出来ています。
生き物の種類によって持っている遺伝子の量というか数は異なりますが、
DNAには違いない。DNAという「物質」ですね。
DNAというものはデオキシリボ核酸という「物質」ですから
人間のDNAだけが特別だとか、頑丈に出来ているとか、変化を起こしにくいというものではありませんよ、念のため。

ですから人間の遺伝子も放射線によって壊れるのです。

遺伝子は大切なものですから「修復」能力を持っておりますけれども(スゴイですよね、良くできてますよね、神のみわざですね。)
しかしその能力を上回れば
その破壊された遺伝子の指示によって合成されるはずであったものは作れなくなり、
それによって私たちの身体には異常が起こることになります。


きちんと管理された上で治療に使う放射線であればまだしも
ばらまかれた放射能から出される放射線は、私たちの身体のどこをどのタイミングでどれだけ貫通しているか全くわかりませんし避けることが出来ないので危険。
さらに、呼吸や飲食によって体内に放射能を取り込んでしまった場合、排出できないかぎり自分の身体のなかで放射線が出され続けているわけですからよりいっそう危険なのです。

したがって、ごく少量であっても放射性物質を含むものは体内に入れるべきではありません。




さて、この結果についてですが、
まず
「大熊町で9割以上が変化」

こういう状況の時、普通は
ほぼ全ての個体に異常が見られた
と表現してかまわないと思いますが
原発事故後、同じモノをこういう表現に言い換える方が多くなった気がします。

・先端の異常があるというだけで枯死はしていない
(死んでないよ、ちょっとの異常だよ、という安全アピール)

・このような環境であっても異常のない個体が約10パーセントもあった。
(1割ではなく10という数字を使って数を多めに感じさせる印象操作。かつ「このような環境であっても」という言葉を加え放射線なんてチョロいもんよ的な印象を与える)

・木は家の中に入れないが人間は家の中に入れるので人間は大丈夫
(人間は特別な生き物であるのだ、と強調することで不安を与えない)




…って
生徒の模試の結果見て励ますのとはワケが違いますのでね
ただちに命に直結することですから「危険」はまっすぐに「危険である」と伝達しなければいけません。


そして次
「浪江町では4割強、3割弱」というこの結果。

なーんだあの浪江町であっても10本のうち6本は全然異常がないし、もうちょっと線量が低いと7本くらいは大丈夫なんだよかったあ。
と思うのか、
この「割合」だと1万本あると4000本以上に異常が見られることになるのだ…困ったなあ、と思うのか。

何らかの意図を持つといくらでも印象の操作はできるものですね。





しかし、最後のこれは強烈です。ごまかせない話。
「北茨城市でも1割弱で変化があった」
これには研究者の良心を感じました。

遠い遠い場所のモミの木を論ずるのではなく、
0.13μSv/hという微妙な空間線量である場所のモミの木。
つまり、ひどい汚染でなないがゼロではない、しかも除染はしない場所を選ぶという行動によってメッセージを発信しているような気が私にはいたします。

考えすぎでしょうかね。

しかしね、この場所を取り上げることによって、いろいろな問題が起こるであろうことは容易に想像できるわけです。正直言って研究者にとっては今後の生活を考えたらリスクだと思います。それでもなぜこの場所のデータをあえて選んだのか。



研究者の心の内側にあるものを想像してみたいと思います。
想像ですから的はずれかもしれません。が、想像は自由ですから。

以下想像

研究者は新しい発見が大好きだろうと思います。
しかもそれを自分の手で論文にまとめ上げるということは誇りであろうかと思います。

福島原発事故による放射線の動植物への影響というテーマは、日本にとって重要なものであり、未知なものでありますから研究者の心をくすぐるものがないと言ったらウソになると思います。勇んで調査を始めた彼らは、おそらく最初のうちは新しいおもちゃを手に入れた子どものようにデータを集め続けたに違いありません。

しかしです。9割という恐ろしい変化を目の当たりにしたとき、ハッと我に返り、事の重大さに打ちのめされたのではないでしょうか。

生き物を相手にする分野を志す方々はその生き物に対する愛情と言いましょうか、そのようなものに近いものを持っていらっしゃる事が多いと察します。
美しい野山が、目に見えない恐ろしいものに汚され、愛する動植物に異常をもたらしたという現実。取り返しの付かない現実。実験室やテキストの上では理解していたかもしれないけれど、現実の世界の中で見てしまった恐怖、そして怒り。




学問は本来自由であります。
しかし、研究者が置かれている立場は決して自由ではない。
御用学者なるものが存在することをみればわかります。
それでも、人間として、伝えなければならないことがあると思った時…


以上、研究とは全く関係ない素人のおばさんの想像でした。





「北茨城市でも1割弱で変化があった」という発表に、そこまで察しなくてもいいのかもしれません。しかし、私はこの結果を重く重く大切な言葉としてうけとめようと思います。
研究者が伝えたいと思った精一杯のメッセージを。


私の想像は完全なる勘違いなのかもしれませんが、

でも、だったとすればこれは神さまのメッセージに違いありません。
真摯に自然と向き合う科学者に与えた神さまの言葉
「放射線は安全なものなんかじゃない」
その事実を、研究者の言葉を通して私たちに教えているのです。

聴く耳のある者は聴きなさい、と。



いずれにしても、地球に住む人類としてこの結果はしっかり受け止めなければなりません。


postscript

汚染地区に入っての調査については相当のご苦労があったことと思います。
ありがとうございました。
調査をされた先生方、学生の皆さん、健康にはご留意下さい。

2015年8月24日月曜日

刈り取るべき実を刈り取ることになる

 以前、どこかで書いたような気がしますが、
「苦しみ」の原因やきっかけはこのヨブのようなケースもありましょうが、たいていの場合は「自分の罪がもたらした結果の刈り取り」もしくは「他人の罪に巻き込まれたゆえ」そして「両者の混合」なのではないかと思っています。
しかし、私は全てのことに神さまのご計画があり、神さまがご存じないところで物事が勝手に起こってしまうことはないという信仰を持っていますから、苦しみの中にある方に対して、もしくは苦しみを得た方の周辺の方々に対する「神さまからの期待」が込められた教育、訓練としての苦難、つまりは意味のあることであると思っています。

 しかし、いずれにしても、苦しみの渦中にあるときに「なぜ」と問うたところでわかることはほぼ無く、数年から数十年という時を経て、それぞれの苦難の持つ意味を「ふと」気付くことになると思いますし、ヨブのように徹底的に苦しんだからこそ、砕かれ、主と真に出会う事が出来る、そんなふうにも思います。



 ただ、黙示録を読んでいると、もはや後々になって意味がわかるということもない「手遅れな」苦しみというものがあるのだと知ります。もうそれは最後の最後でありますから「その後」はない。
だからその一歩手前にあるこんな場面にも私たちは気付かねばなりません。
すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b
 黙示録には、人々がその罪のゆえにどうなっていくのかということがたくさん記述されています。読んだことのない方に豆知識としてお伝えしておくならば、聖書には、この書だけでなくあちこちにそのような類の預言とでも申しましょうか、厳しいことが書かれているのです。いつどこでどうなるのかという具体的なことは伏せられてはいますが。
しかし、伏せられているとは言え、神さまは偽りのないお方であるという信仰を持っている自分は、いつどういうかたちであったとしても「そういうことが起こる」のだという、現実に直結した問題であるととらえています。



 さて、このみ言葉には悪性のはれものが出来るという苦しみが書かれております。御使いが鉢を地に向けてぶちまけた結果こうなるというふうに書かれているだけでありますから、天使がいったい何をぶちまけるのか、とか、いつそんなことになるのかということは神のみぞ知ることとして今日は脇に置いておきたいと思います。そういうことではなくて、このみ言葉を読んでどんなメッセージが聞こえてきたのかということを今日は少し書いてみようと思います。


 なぜ、「獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々」には悪性のはれものが出来るのでしょうか?

 獣の像を拝むという人々は、聖書で言うところの獣という語の意味を踏まえて考えるならば、ざっくり言って天地をつくられた創造主たる神さまの存在を認めない人々です。
人はその一生の中で、「この世界は偶然生まれた」という科学っぽいことがらに「本当かなあ?」という疑問や不思議を感ずることが一度くらいはあるのではないでしょうか。この世界という広いモノを考えられなくとも、自分自身とは何なのか、生きているとはどういう事なのか、とか、そんなことを考えることがあるかもしれません。
 そんなとき、神さまはこの自然界にあるいろいろな素晴らしいものやシステムを私たちに示し、よく考えるようにし向けられる事が多いのですが、中にはそうした機会によく「考えない人」というのがいるのですね。

 タマネギとにんじんとジャガイモと肉と水とカレールーを鍋に入れ火にかけたら知らぬ間においしいカレーができあがるわけではなく、それぞれを適切な形に切り、適切な量用い、適切なタイミングと調理時間という、作ろうという意志を持って思考して作らなければ作れないということを知っていながら、どういうわけか、生物に備わった複雑な免疫系はたまたま出来たのだと言い切る人々。
 また、一見するとよく考えている風であって本当は一つも考えてなんかいない、他人の言説によって世の中の全ての事象が理解できた気になっている人々。

 その「いい加減さ適当さ愚かさ」に気付かず創造主に対する信仰を馬鹿げたことだと言って遠ざけ、「偶然」という創造よりも想像しにくいものを「科学」と呼んで正しいとする。
本来「科学」とは、既にある自然をよく知ろうとすることであり謙虚で地道な実験と観察の積み重ねでしかないのに、アンチ創造こそ「絶対神」であるとしていっこうに自然を見ようともしない。


目の前に示されたところで、見ない。開いていても見えない目。
聞かされたところで、聞かない。儲け話は聞こえるのに神の言葉を聴かない耳。

それが獣の像を拝む人々です。



蚊の針のデザインが優れていることも、ミツバチの巣のデザインが優れていることも知りながら、
創造主を認めない

それが獣の像を拝む人々です。



すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b

 万能であるはずの神さまが、天地創造に6日間もかけて私たちが理解できるように教えて下さったように、イエスさまが病む方の身体に触れてお癒しくださったように、
ここでも神さまは「御使いに鉢をぶちまけさせる」という私たちが理解しやすい方法によって悪性のはれものをもたらされます。
獣の刻印を受けている人々や獣の像を拝む人々と、神さまを信じる人々とを分ける
そのためにぶちまける何か。

 鉢をぶちまけるという行為によってひどい悪性のはれものが出来る原因がもたらされるのですから、たとえば獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々は結果その原因物質を摂取し、神さまを信じる人々は摂取しないというような、ちょうど旧約聖書の食物規定のような情報が神さまを信じる人々だけが知りうる情報がもたらされるのかもしれません。
そして、その結果与えられる苦しみ。

 人間の身体が本来の姿をとどめず悪性のはれものができるようになるのは遺伝子が傷付いてしまったときです。遺伝子には修復能力がありますが、その限度をこえてしまったとき、その生物がもともと持っていたオリジナルな自己形成のための遺伝子、そして子孫に伝えうる遺伝子はもともと備わっていたものとは異なるものとなってしまいます。生物にとっての究極的な苦しみ!

 情報はあったのに、自分の頭でよく考えず、悪い結果を刈りとらざるを得ない人は自己責任であって仕方がないことでしょうが、世の中には他人を苦しみに巻き込んだり地の底に突き落とそうとする邪悪な人がいます。目先の利益を重視し小さな子どもたちや弱い人々の命をないがしろにする人、お金のために情報を操作したり隠蔽する人!

 聖書は、目先よりも少し先、邪悪な人の最後について教えます。
真実から目を背け、自然に謙虚に向き合わず、小さき者をないがしろにする者がどういう結果を見ることになるのか。獣の像を拝み、創造主を無視し続ける者の未来がどうなっていくのか、
旧約の時代から新約聖書ヨハネの黙示録に至るまで聖書は繰り返し繰り返し警告しています。


 あなたはどう思うのか。
神さまはあなた自身に問うておられます。
 あなたはどうするのか。
良心に背を向け聞かなかったふりをして身を隠し続けるつもりなのかと問うておられます。





いつまでも何も起こらないさ。
聖書?神?そんなくだらない!
自分は関係ない!



持っているはずの良心に従うことはなく
自分の頭で考えない獣側の人々。




やがて、あなた自身があなた自身の刈り取るべき実を刈り取ることになります。