2024年10月27日日曜日

主の御声

これは、預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであった。

「見よ、私の選んだ僕
私の心が喜びとする、私の愛する者を。
この僕に私の霊を授け
彼は異邦人に公正を告げる。

彼は争わず、叫ばず
その声を大通りで聞く者はいない。

公正を勝利に導くまで
彼は傷ついた葦を折ることもなく
くすぶる灯心の火を消すこともない。

異邦人は彼の名に望みを置く。」

マタイによる福音書12章17~21節(聖書協会共同訳)


見よ、私が支える僕
私の心が喜びとする、私の選んだ者を。
私は彼に私の霊を授け
彼は諸国民に公正をもたらす。

彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。

傷ついた葦を折らず
くすぶる灯心の火を消さず
忠実に公正をもたらす。

彼は衰えず、押し潰されず
ついには、地に公正を確立する。
島々は彼の教えを待ち望む。

イザヤ書42章1~4節(聖書協会共同訳)



アイロンがけをしながら、小さな単語カードに書いておいた御言葉をなんども繰り返して読み、考えておりました。

「彼は争わず、叫ばずその声を大通りで聞く者はいない。」

 ―――イエスさまの声を大通りで聞く者はいない―――



「大通り」は、ギリシャ語で

πλατύςと書いてあります。これは

Strong's Greek 4113 πλατεῖα が原形で、通り、広場、広い道という意味があります。
4113番は聖書には9回登場していて、
マタイによる福音書ではあと一箇所、6章5節で使われています。

「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。(聖書協会共同訳)

さらに調べると、この4113番はStrong's Greek 4116 πλατύς に由来する単語だとNAS Exhaustive Concordanceには書いてあります。
4116番は聖書の中にはたった1度しか登場しない言葉です。そしてそれはマタイによる福音書7章13節の「大きく」と訳されているところに使われています。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。(聖書協会共同訳)



イザヤ書42章2節のところで「巷」と翻訳されているところはヘブライ語では

חוּץ

これは大通りということではなく、定義としてはthe outside, a streetなので

建物の中ではなく「外」というニュアンスを土台に持った a street「通り」ということなのでしょう。

イザヤ書42章2節は

לא יצעק ולא ישא ולא ישמיע בחוץ קולו׃

とヘブライ語聖書に書いてあります。頭から順番に読んでみると

לא יצעק 叫ば ない

ולא ישא そして上げ ない 

ולא ישמיע そして 聞か ない

בחוץ קולו  声を


ということになり、


イエスさまは大きな声で叫ぶことはなく
צעקツァアクは叫ぶと訳しますが、苦悩を表現したり、援助を求めたり、公に宣言したりする文脈で使うと、Berean Strong's Lexiconに書いてあります。)

大通りどころか「外」ではその声を聞く事が出来ないということになります。


そういえば、

列王記上19章12節にはこういう御言葉がありますが、

地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやくがあった。

この「声」という言葉はイザヤ書42章2節の最後にある「声」というところに使われているのと同じ単語でקוֹלですが

この主の御声もדממה דקה

דממהデママは沈黙とか静寂という意味ですがBerean Strong's Lexiconによると、

沈黙という概念は、単に音がないことではなく、
反省、瞑想、神を体験できる状態のことを意味するのだそうです。

たしかに、デママという言葉の文字列を眺めると、まずはדダレトがあり、それは扉ですから扉を開けて中に入って閉めてしまう、そしてその次にמメムがあり、メムは海、そして水。そして人が生きるのに欠かすことのできないもの、神さまの御言葉、トーラーを表現していると考えられます。
そしてそのあとにהヘー、アブラムがアブラハムになった時の「ハ」であり、神さまのお名前を構成する四文字のうちの二文字であるわけですから、
ダレト、メムの後にそこに至るとなれば
単なる沈黙ではない、「主のみ言葉を聞く=主との交わり」というニュアンスを持つ静寂なのだということにも納得がいきます。

 そしてדקהדקダク=薄い、小さい、細かい という単語にהヘーが付いた形ですが、これもデママのように最後がהヘーであり、「小さい」ことがהヘーに至るのだとなれば、クリスチャンとして聖書を読み続けてきた経験からなんとなくニュアンスはつかめるわけですが一応調べてみましたら

このדקהという言葉は聖書にもう一箇所あり、それはレビ記16章12節のところでした。

そして主の前の祭壇にある炭火を香炉に満たし、細かく挽いたかぐわしい香を両手一杯に取る。それから垂れ幕の中に携えて行く。

Berean Strong's Lexiconによると、

古代イスラエルでは、「薄さ」や「繊細さ」という概念は、純粋さと洗練さに関連付けられることが多かった。たとえば、上質の小麦粉は、供物や日常の使用に最適であると考えられていた。穀物を挽いて上質の小麦粉にする作業は、労働集約的で、献身と配慮を象徴していた。

ということなので、これらのことを踏まえると、

やはり「かすかにささやく声」と訳されている言葉は

ただ単に小さな声だったことを描写しているわけではなく、デママ、ダク、それぞれのあとにהヘーの付いたニュアンスを含んでいて

父なる神さまと御子に共通するקוֹל「声」、
御声、御性質を感じさせられるような気がします。

そして、私たちはそういう御声、御言葉を聴いて

「狭い門」であるものを見落とさぬようにしていきたいものです。




あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。マタイによる福音書6章6節(聖書協会共同訳)

דממהデママという言葉が見えるような気がします。