新改訳聖書を読むと箴言28章4節にはこうあります。
おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。
新共同訳聖書ではこうなっています。
教えを捨てる者は神に逆らう者を賛美し 教えを守る者は彼らと闘う。
口語訳聖書では
律法を捨てる者は悪しき者をほめる、律法を守る者はこれに敵対する。
おしえ、教え、律法というところ、ヘブライ語ではתורהです。torah
モーセ五書のことです。
イエスさまがマタイ7章12節でおっしゃったことを思い出しました。
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται 律法と預言者
ギリシャ語で律法はノモスとなっていますが
もしも本当にイエスさまが「律法と預言者」と語られたのだとすれば(最近は聖書を素直に読む事が出来ません。改ざんされているのではないかといちいち思ってしまいます。)
ユダヤ人が「律法と預言者」という言葉を並列させるときに、律法をノモスだなどと語っているはずはありません。
イエスさまが律法と語られたのならばそれはトーラーתורהとおっしゃったはずです。
トーラーとノモスはイコールではありません。
ギリシア語のノモスは法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範のことを言います。
しかしトーラーには創世記の天地創造の場面も含まれるわけですから、ノモスが表すような規範だけではなく、自然界のすべてのルール、DNAの塩基配列もそうですし、物理や化学として知られているようなさまざまな法則も含まれるわけです。
だから、「トーラー」について語るときに「がんじがらめの」などという修飾語をつけて表現するのは見当違いも甚だしい。がんじがらめなどではなく、創造主によって与えられた極めて美しい秩序の経緯と被造物の取扱に関する説明が書かれたものがトーラーの本質です。
トーラーをないものとすれば、混沌、茫漠、つまりは創造以前の世界になってしまうわけです。(創世記1章2節のような、エレミヤ4章23節のような世界)。
わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
申命記4章2節(口語訳)あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。
申命記12章32節(口語訳、新共同訳では13章1節が該当箇所)
神さまが私たちに与えてくださったルールに付け加えることも減らすことも
神さまは許されません。
これはどういう意味かと言えば
地球が自転しながら公転していることやプレートが動いていることについてはあきらめるが原子や遺伝子につけ加えたり減らしたりする、という発想はありえないし、道徳律法のみが有効である、という発想もあり得ないし、すべての律法は無効になったという発想もあり得ないということです。
しかし人間は、伝道の書7章29節のようで、話をややこしく複雑にしてしまった。
トーラー(モーセ五書)とほかのもの(人間の勝手な解釈)を「混ぜて」論じていることに気付かないくらいごちゃごちゃにしてしまった。
そしてもう一つ、
「イスラエル」と「異邦人」は異なる、という、
神さまの定められた、永遠に不変である明らかな「区分」に、
あたかも変更があったように思わせる偽の情報によって、
「イスラエルに求められていること」と「異邦人に求められていること」をごちゃまぜにして、分かりにくくしてしまった。
イエスさまに尋ねてみれば、
イエスさまはマタイ7章12節においても
・・・そう、マタイ7章12節が本当にイエスさまの言葉であるのなら😩
イエスさまは日本語で言うところの「律法」をないものとはしておられません。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」
この箇所はどう読んだとしても「律法と預言者の本質がこの一文に要約される」という話だからです。要約される「もとになるもの」が存在しているという前提があるから要約できるわけです。
だから、もしも「律法」が、あるクリスチャンたちが語るように「無効になった」もしくは「終了した」のだとすれば、
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という言葉も不要なもの、行わなくてよいものです。
なぜなら、この一文は「律法であり預言者である」=律法と預言者の要約である からです。
もっとも、
社会情勢や政治情勢、そして信者の立場の違いによる宗教的な思想に影響を受けながら成立した書物を論文のように扱うことはできないはずですから
そうです、
いちいちこんなことを主張して弱い人々や小さい人々を困惑させる必要などないのです。
教わった通り信じていれば良いのです。そうする以外どうにもできなかったのですから。
ただし、テキストを改ざんした人間たちや
指導的な立場にある人々の責任は重いでしょうね。
箴言28章4節に戻ります。
4節の初めの言葉、
「おしえ、教え、律法」を捨てる者は
と書いてあるところは、
ヘブライ語でこう書かれています。
עזבי תורה
Strong's Hebrew 5800 עזב アザブ=離れる、捨てる、見捨てる
という単語のうしろに
神さまの右の御手であるיヨッドが置かれています。
そしてさらにそのあとに תורהトーラーが置かれています。
「『おしえ、教え、律法』を捨てる者」という部分をヘブライ語で読むと
アザブの三文字から読み取れる強さと酷さの余韻の後、外に追いやられるように置かれているヨッドとトーラーに、震えるような怒りがこみ上げてきます。
神さまの右の御手(すくいのみわざ)ヨッドをないがしろにし
神さまの「みことば(トーラー)」を重んじない!
「あなたはヘブライ語を理解していない!そんな読み方をする意味も必要もない!」
とおっしゃる方がおられることも承知の上でこんなことを書いているわけですが
文法はどうであれ、(なぜ文法をないがしろにするような言い方をするのかというと、
神さまは学が無ければ読めないようなものを人間にはお与えにならないと考えるからです)この絵画のようなヘブライ文字の並びにダビデの言葉を思い出すのです。
「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」
詩編54編5節(新共同訳)
異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
そして、律法は終わったと言っている人々が
ダビデのように神さまを自分の前に置く者ではないのだ、と思えてくるのです。
עזבי「捨てる者」
5800番アザブ自体はいろいろな文字がくっついた形でトータル211回聖書に登場していますがעזביという形では4回だけの登場です。箴言28章4節以外のところは以下の箇所です。
詩篇119:53 あなたのおきてを捨てる悪しき者のゆえに、わたしは激しい憤りを起します。
イザヤ書65:11 しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、
ダニエル書11:30 それはキッテムの船が、彼に立ち向かって来るので、彼は脅かされて帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行うでしょう。彼は帰っていって、聖なる契約を捨てる者を顧み用いるでしょう。
トーラーを捨てること、聖なる契約を捨てること、それは
神さまご自身を捨てることです。
マタイの福音書でイエスさまが語られた「律法の一点一画」という言葉
本当にイエスさまがそう語られたのかどうかということはともかくとして
ギリシャ語における一点一画ではなくヘブライ語における一点一画を考えてください。
ヘブライ語における一点一画とは「יヨッドとוヴァヴ」ですから律法から一点一画がなくなるというのは、「יヨッドとוヴァヴ」が無くなることなのです。
つまり、
神聖四文字とされる神さまのお名前から二文字なくなるということです!
יהוה
この神聖四文字から二文字がなくなる!
神さまのお名前はなくなるのです!
そして何が残るかと言えば
הヘーが二つ。そういえば以前調べましたがガザという地名は
עזה Azzah
עזב アザブと一文字違いです。
そうそう、アザゼル(←ウィキペディアにリンクをはってあります)という言葉もעזから始まることばなのでした。
עזאזל
そして
עזアズという言葉は
以下の引用聖句の下線を引いたような箇所に使われている言葉です。
申命記28:47~52
あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、 あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあなたを滅ぼすであろう。すなわち主は遠い所から、地のはてから一つの民を、はげたかが飛びかけるように、あなたに攻めきたらせられるであろう。これはあなたがその言葉を知らない民、顔の恐ろしい民であって、彼らは老人の身を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜が産むものや、地の産物を食って、あなたを滅ぼし、穀物をも、酒をも、油をも、牛の子をも、羊の子をも、あなたの所に残さず、ついにあなたを全く滅ぼすであろう。 その民は全国ですべての町を攻め囲み、ついにあなたが頼みとする、堅固な高い石がきをことごとく撃ちくずし、あなたの神、主が賜わった国のうちのすべての町々を攻め囲むであろう。
エゼキエル書7:24~27
わたしは国々のうちの悪い者どもを招いて、彼らの家をかすめさせる。わたしは強い者の高ぶりをやめさせる。また彼らの聖所は汚される。滅びが来るとき、彼らは平安を求めても得られない。 災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。王は悲しみ、つかさは望みを失い、その地の民の手はおののきによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らをあつかい、そのさばきに従って彼らをさばく。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。
ダニエル書8:23~26
彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでしょう。その顔は猛悪で、彼はなぞを解き、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。先に示された朝夕の幻は真実です。しかし、あなたはその幻を秘密にしておかなければならない。これは多くの日の後にかかわる事だから」。