2022年7月30日土曜日

何を信じ何に従うのか

久しぶりに「あなたはブラウン管」←英訳してください
に行ってみたら
群馬の子が昔行っていた臨海学校のある日本海側の県の
「国」の作った教育機関の
名誉教授のpresentationが
消されていました。
消されたのだそうです。予告もなしに。

米国の心臓学会の上級会員でいらっしゃる
たくさんのドクターを育てられた先生をδημαγωγός呼ばわりして
 
なんということでしょうか!

今、黙示録16章の言葉が心に浮かんでいます。

これまでの時代にも、先人たちが世のさまを目にしながら何度も何度も読み返したであろうこの言葉を、今、いろいろな人間の顔を思い浮かべながら読んでおります。

(御言葉は「日本語の聖書」サイトさまの口語訳聖書を引用させていただきます)

16:13また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。 16:14これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。 16:15(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。) 16:16三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。

かえるのような三つの汚れた霊は、龍と獣とにせ預言者の「口」からでてくるのです。「口」から出てくる霊がいったいどのようなものであるのかは「かえるのような」という修飾で容易に判断はつきます。
小さな体で大きな音を作り出す生き物。聖書の世界では汚れたものとされる生き物。
「混沌」に秩序を与え「茫漠」に形を与える聖いことばであられる創造主に反逆する者どもの「口」から出てくるものは、創造主と真逆の性質を持った言葉であります。
秩序を破壊し、形あるものをむなしくし、光を闇に、命を終わらせる言葉。
そのような悪霊の霊が全世界の「王たち」のところに行くのだとヨハネは語ります。


高性能なコンピュータとインターネットの普及によって、私たちの周りには、これまでの時代にはあり得なかった大量の言葉が存在しています。極東の田舎に暮らす私のようなものであっても、世界各地の情報にリアルタイムでアクセスでき、どんな言語で書かれていても翻訳ソフトをワンクリック。完ぺきとは言えないまでも、バベルの塔のゆえに生じた問題が克服されたかのごとくです。
しかし、それらが正しい言葉なのか、偽りの言葉なのか、情報を区別することが困難になっているのも事実です。巧妙な偽の情報を流す者がいるから、ということもその原因でありますが、だからと言って、それに乗じた、記事のトップに記したようなsuppressは憂慮に堪えません。 

そういえば、マタイ24章でイエスさまが語られた終末の徴として描写されているのも「情報の錯綜」です。
24:23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。 24:24にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。 24:25見よ、あなたがたに前もって言っておく。 24:26だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
主が語られたこのわずか数行の描写、私はこの40年間に何十回何百回と「異端宗教」や「諸宗教の教祖」をイメージして読み流しておりましたが、今この時、現実世界に起っている物事を考えながら読み返すと、「そういうことではなかった」のかもしれない、と、もっと切迫した恐怖を感じます。私たちに『見よ、ここにキリストがいる』『あそこにいる』と語る人は初詣でもらってきたおふだをありがたそうに拝んでいる隣の家のおばあさんであるはずがないからです。
もちろん、イエスさまがこの言葉を語られた時にどこの国にいたのかと考えれば極東の田舎の事情とは異なるものはあるわけですが、しかし、この数行の言葉を私がどこで経験するだろうと考えた場合、
少なくとも隣の家のおばあさんとのかかわりで生ずる事態ではなく、私たちがうっかり耳を傾けてしまう可能性がある中で起こる事態であろうと想像できるからです。
 


 
 
マタイ24章の言葉を今度は23節の前から引用します。
 
24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
24:23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
 
 
 
 
『見よ、ここにキリストがいる』という言葉がどのような時に発せられるのか、と言うと、それは「大きな患難の時」です。
 
この「大きな患難」の時よりも前に身体の命が終了している人はともかくとして、それ以外の人は「選民」であったとしても「大きな患難」に遭遇する、ということです。選民のために期間が縮められるというのですから選民だって患難の中にいるということです。まあ、選民とは誰かという定義によって話は変わるのかもしれませんが。

「そのとき」つまり「大きな患難のとき」に、『見よ、ここにキリストがいる』という話になるわけです。
世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難だというのですから誰もが大変な状況にあるはずです。
患難・・・例えばノアの洪水だったり出エジプトの時の10のわざわいだったり、そういうものを想像すれば
そう、ノアの箱舟、箱舟に入っていれば安全なのだということを教わりますが
箱舟、けっこう大変ですよねえ。ノアが一人で乗っているわけではないのですから。
ハムだって乗っています、ありとあらゆる動物が乗っています、いろいろ大変ですよね。(ま、ハムが乗ってるあたりで考えると「家族」は確かに救われそうですが)
とにかく、大きな患難のときにです、
そういうときに『見よ、ここにキリストがいる』という話になるわけです。
とすると、人々はこういうニュアンスで言っている可能性があります。『見よ、ここに救いがある』
つまり、この辛く苦しいわざわいから救われる方法としての何か、ということです。
 
 
 
上の方で私は
「混沌」に秩序を与え「茫漠」に形を与える聖いことばであられる創造主
 
という表現を用いました。
またこんな風にも書きました。
 
「混沌」に秩序を与え「茫漠」に形を与える聖いことばであられる創造主に反逆する者どもの「口」から出てくるものは、創造主と真逆の性質を持った言葉であります。
秩序を破壊し、形あるものをむなしくし、光を闇に、命を終わらせる言葉。
 

 
今日(こんにち)、正統的とされるキリスト教界にこんなことはありませんか?
創造以前の「混沌」「茫漠」に戻すことを良しとすること、
すなわち、神の造られた秩序(ルールやシステム)を変えてしまうこと。
ルールやシステムとは、初めの初めに創造主が作られたもののことです。
文字(律法)もそうですが、物性、法則、そういう諸々も含みます。
「このわざわいから救われる方法はこれだ!」
「最新の世の中の常識はこれです!教会も当然変わらなければいけません!」
 
 
 一人一人の判断が問われるときです。

さあ、私たちは何を信じ何に従えばよいでしょうか。