2022年3月4日金曜日

小川未明の「野ばら」

 毎日読んでいる群馬のローカル新聞。そんなローカル紙の投書欄でもこのところロシアとウクライナの問題で熱くなっている人がたくさんおられます。

 

小学校5年生の頃、国語で小川未明の「野ばら」という童話を学習しました。
青空文庫 小川未明「野ばら」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html

隣り合った大国と小国の、国境警備のために派遣された老人と青年のお話。
都からはるか遠くにある国境で、
二人はのどかに将棋をさしたりしております。
が、大国と小国が戦争になって・・・

 

いろいろな理由から最近の小学校の教科書には「野ばら」という作品が採用されなくなったようですが、

40年以上前にこの小川未明の「野ばら」を読んだ私が今ごろになって突然思い出すくらいですから、
影響力のある作品だったのだろうと思います。

 

なぜ「野ばら」を思い出したのか。

おそらく、ローカル紙で熱く語る方の言葉に恐怖を感じたからだと思います。

 

「野ばら」という作品をどう読むのか、教科書に掲載された作品としてどう教わったのか、
残念ながら私にはそのあたりの知識も記憶もないのですが、
自分自身の中に残されている「作品から学んだもの」は、おそらく、「熱狂から切り離される」ということだったような気がします。
以前このブログに書いた「熱狂から分離され切り離されること」という記事がありますが、おそらくそういう心境に至ったのも、小学生時代に読んだ「野ばら」から得た知恵のような気がします。

「野ばら」を読んだ幼い日の自分は、暴力と争いの絶えない家に暮らしておりました。そして私は被虐待児でありました。
そういう私にとって、勇ましい人間や熱い人間はただただ恐怖でしかなく、たとえ非の打ち所がない正論を語っていたとしても、なんの魅力も感じることはなく、そこに信頼の思いなど生まれることはないのです。
そういう子どもであった私が「野ばら」という作品を読み、
この「野ばら」という作品を一枚の絵に見立て、その絵の中のどこに自分を置こうかと考えた時、
いっさいの境目がない青空の下に植えられた、真っ白な花を咲かせる野ばらに群がる自由なみつばちの中にしかあり得ませんでした。

都から遠い遠いところを自由に飛びまわるみつばちは、花が咲いたら蜜を集め、巣に持ち帰るだけのことです。大国に花が咲けば大国に、小国に花が咲けば小国に行って、国境に花が咲けば国境の花に群がって蜜を集めるだけの存在です。

私はそれがいい。

 

核酸ワクチンでこれだけたくさんの日本人が亡くなっているのに
きちんと報道しないメディアが
遠い国の戦争について正確に報じているのか、ちょっと怪しい・・・と思っています。

戦争とは情報戦。私たちはニセの情報に踊らされてはいないのか、かなり不安です。

 

たとえ偽物ではなかったとしても、

感情を揺さぶられ、
あいつを叩け、あいつを滅ぼせ、お前はどっちにつくのだ!と
テレビを眺め新聞をざっと読み一日や二日考えたくらいで叫んだら絶対に間違えます。
そして、忘れてはならないことは、どちらにつくと言うことはその戦争に参加するということです。


私のような遠い遠い極東の片田舎の人は冷たく冷たく冷たく、静かに静かに静かに。

はちみつ探してぶんぶんぶん
いつでも笑顔ぶんぶんぶん

Спасибо.Спасибі.

 

熱狂の中では
善意の者のように見える者であれ
よく考えずにずかずかと踏み入れば
荒れに荒れ、荒れ果ててしまう。

そして花は枯れ
みつばちは散らされてゆく。


私たちはかすかな細い声を聞き逃してはいけません。
神の言葉から遠く遠く離れた言葉に支配されているこのとき。