彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、乾き、魂は衰え果てた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
詩編107編4~9節
以前、出エジプト記を読んでいた時、私は大変な苦難に出会っていた人を見ました。それは、エジプトの王であるファラオ(パロ)とエジプトの国民です。
出エジプト記を読むとき、たいてい私はイスラエル側に立って読んでいるので、「ファラオはいい加減にイスラエルを解放してやってよ!」と思うわけですが、
それにしても繰り返し繰り返しこれでもかこれでもかと災いがもたらされるあの場面、エジプトの側に立って考えるととんでもない話です。
「なぜ」そういう災いが起こっているのか、人は「原因は~だ」と分析をするわけでありますが、あのエジプトの災いについても原因がどこにあったのか聖書にはきちんと書いてあります。聖書信仰を持たない人が読めばきっと「災い」にしてもその後のイスラエルにもたらされたもろもろの「奇蹟」にしても「バカバカしい作り話」「都合よく改ざんされた伝承」ということになるのだろうな、とは思いますが、
しかし、世界に「もともとある」秩序(都市のオアシスのごとき木群や原子核や遺伝子の塩基配列等々)を欲のおもむくままに破壊したり、弱い人々を虐げるというような
私たちの心に書かれた「良心」だけに丁寧に問えばおそらく手を出さなかったであろう物事は、結局人類にも地球環境にも究極的な益はもたらさずむしろ害悪に通ずる道であったということは歴史に問うて納得せざるを得ないような気はします。
さて、「災い」という名の、神さまによってもたらされたたくさんの「不思議」を目にしたファラオは、困った時の神頼みはするものの喉元過ぎれば熱さを忘れ、何度人知を超えた不思議なことを見ても創造主である神を畏れるということには至りません。出エジプト記9章20節を見ると、ファラオの家臣のうちにも「主の言葉」を畏れたものがいなかったわけではないようですが、
どんなに不思議なことを見せられたとしても頑なな心の者(素直に物事を見ようとしようとしない者)は「こと」の本質に到達することはできない、神さまの言葉を信じることはできない、災いを避けることは出来ない、ということを私たちは気付かされます。
そういうことを思いながら、再び詩編の作者が語った「苦難」という言葉に戻ってみると、そこにはファラオのようではない「彼ら」の態度がありました。
「彼ら」もファラオ同様、神の仰せに反抗し(11節)背く(17節)者でしたが、
A. 苦難の中で目をさまし、
B. 自分の態度を反省して神さまに頼ります。何が悪かったのか、何が良いことなのか、「彼ら」は思い出し、良い方へと向きを変えて歩みだすのです。
C. すると「彼ら」は救われる。
A 彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、乾き、魂は衰え果てた。
B 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
C 主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
D 主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
E 主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
詩編107編4~9節
D.E.その「彼ら」のストーリーを詩編の作者は知っているのです。当事者ではないけれどもそういう「事実」があったのだ、主とはそういう恵みに富み赦しに富み、豊かに憐れんでくださる愛に満ちたお方なのだ、と語る。主は驚くべき御業を成し遂げてくださるお方なのだと宣言、同時に後世に生きる私たち読者に教えてくれるわけです。
そう、主は涸れた谷にあって水を慕い求める鹿が飽き足りるほどに良い水をほとばしらせてくださるお方なのだよ、と。
さて、私は「苦難」の中で何をするべきでしょうか。
聖書に答えを求めるならおそらくたしかな答えは一つあって、
そうすれば求める以上のものが飽くほどに与えられる
ということなのだと思います。