2020年8月3日月曜日

「闇」という言葉
חשֶׁךְは、dark、 darkness、 obscurityと英訳されています。
たしかに、闇の中におれば視覚が効かなくなりますから、五感のうちの一つが失われたとすれば「曖昧、難解」となるのでしょう。

 

今我々は得体のしれない闇と向き合っております。
いや、闇の中に頭を抱えて座っているのかもしれません。

 

最近、出エジプト記の13章14章を読みながら、あらためて、
「すべての出来事は主の手中にあるのだ」ということを思いました。
14章4節で主は、ご自身がファラオの心をかたくなにするとおっしゃいました。
ファラオの心をかたくなにすることがモーセをはじめとするイスラエルをどういう気分にさせるのかと考えれば、ファラオにはかたくなになってほしくはないわけですけれども、しかし主はそうされました。
もっと言えば、13章17節において、イスラエルに近道を歩ませるのではなく荒野に向かわせた主。
どちらについても当事者であれば主よどうしてですか??と問いたいことでありましょう。しかし主はそうされたのです。
私たちに信仰心があるのならば、「どうして??」ではないのです。
主がそうされたのならばそれが最善なのですから。



「どうして??」と私たちが問いたい思いになる時、
それは、目の前に起こり続ける「現象」だけに目が行っている時です。
全ての出来事がもれなく神さまの御手のうちにあるのだ、と信じることがからし種ほどであれ出来るのならばその「現象」の向こうに神さまの御手を見ることができるはずです。
しかし、現象に心を奪われ恐怖を感ずるとき、私たちはこんな言葉を発するのです。
「…荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕える方がましです」



闇がエジプト全土を覆いつくしたとき、主はご自身の愛する民のところにだけは光を与えてくださいました。エジプトを出発したあと、不安な夜道では、主の愛する民の前を火の柱は離れることなく「あり」ました。
たとえ、闇が私たちを覆いつくそうとしたとしても、私たちが闇に気を取られるのではなく、闇を裂く前を行く火の柱に目を向けるとき、闇の中でも私たちは迷わず進むべき方向に進むことができるのです。
 
モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
出エジプト記14章13,14節(口語訳)
 
 
私たちが「残りの者」であるなら、
「残る」のですから都合の悪いことを避けていけるはずはありません。
荒れ野を歩むような困難の中、次から次へとこれでもかこれでもかと起こる困難の中、たとえそういう状況であっても信仰者は主に守られ、「最後まで残っていく」。

主は、主を、主のみことばを愛するものを、見捨てるはずがないというのが私の信仰です。それは、漠然とそう教わったからそう信じているというわけではなく、40年の信仰生活における経験を経た確信です。
主は私の性格を知っておられ、また、私の信仰が小さく弱いものであることを知っておられたので、他の誰とも異なる私にふさわしい方法で導いてくださいました。そして与えられたたくさんの苦しみや悲しみを通してこの確信を与えてくださいました。

たとえ闇に覆われても主は照らしてくださる、
わけがわからない出来事に出会っても、これが道だこれに歩めと語りかけてくださる、
そして越えられない終わりのない苦しみは絶対にない。

今こそすべての信仰者は見ずに信ずるということがどういう意味であるのか考えるときです。
世界中がわけのわからないものに振り回されて真っ暗闇になってしまったとしても
与えられている油を灯して「時」を待ちましょう。


神さまは信ずる私たちのことを絶対見捨てません。
権威にも期待できず国に見捨てられたとしても、
私たちの王は
永遠から永遠までをご承知であるお方は  
必ず

私たちを救ってくださいます。