現在私は新共同訳聖書を読んでおります。しかし、20年以上新改訳聖書を愛読していた関係でときどきあてられている訳語の違いに戸惑うことがあります。
で、今朝も、「こんな御言葉あったんだっけ???」と不思議に思える箇所に出会いました。
いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
詩編84編6節
ここの箇所に該当するところを新改訳聖書から拾ってみるとこう書かれています。
なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
詩篇84篇5節
「シオンへの大路」という表現に慣れ親しんでいたので、単なる「広い道」という表現に少々違和感を感じたのだと思います。
新共同訳の詩編84編6節から始まる段落と新改訳の詩篇84篇5節から始まる段落のそれぞれ全体を比較してみれば取り立てて言うほどの違いはないのですが、ただ、自分は物を読むときに、「意味」だけではなく「言葉から受ける印象」というものの影響を強く受けるタイプなので、同義であったとしてもそこに選ばれて置かれた言葉の深いところにある意味を探って見出そうとしてしまったのかもしれません。
で、何を思ったか、ということですが、
それはタイトルに書いた通りで、
「心に広い道を見ている」という御言葉を読んだとき、反射的に「狭い門」という言葉が心に浮かんだわけです。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書7章13、14節
ところで、イザヤ書40章にこんな御言葉があります。
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
イザヤ書40章3,4節
「呼びかける声」が
「荒れ野、道」、「荒れ地、広い道」、「険しい道、平ら」、「狭い道、広い谷」という対になる言葉、そして、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」という対になる表現を用いて
メシアの到来によって地上にどんなことが起こるか、ということを語っています。
私たちの心には到底浮かんできそうにないようなとてつもないこと、そして逆転現象のようなものがもたらされそうです。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
イザヤ書40章5節
神さまはメシアによって驚くべきことを実現され、
主の栄光がこのように現れるのを肉なる者は共に見ることになるのだ、と預言書は語ります。
とすると、私たちにはまずその狭い門を求めようとする心が必要です。そして、門はどこであろうかと注意深くなる必要もあるわけです。そして、もしも門のあることに気づいたら直ちに入っていくべきだ、ということになります。
こうやって詩編を読めば今日も神さまは希望を与えてくださいます。
狭く見えるこの道も険しく悲しいこの道も、ゴールのあることを信じ、主とともにあれば広く豊かなシオンへの大路です。