群馬の小中学校では学校給食が計画停電等の影響でつくれず、パンと牛乳だけの簡易給食であるとか、お弁当持参であるとかという状態です。
ところが、これがちょっとした問題となりました。
簡易給食の場合、通常の給食と比べてカロリーが低くなることや栄養バランスが悪いため、補助的な食品を家庭から持参することにさせた学校があったようなのですが、これについて
「被災地のことを思えばパンと牛乳で十分ではないか」という意見を述べる人があって簡易給食だけにしたのだとか。
未曾有の災害。こういう事態になるとちょっとしたことが大問題になるわけで、…とくに、こういった状況ではある種の精神論を語り出す人が大勢出現します。
もちろん、物が本当にないのなら「被災地のことを思って」贅沢なことは出来ないわけですが、
政府の言葉を借りれば物は潤沢にあるわけですから物資の届く地域の人間が物を食べて何が悪いのか、ということです。
むしろ被災していない地域は、しっかり立たなければいけません。
しっかり立っていない者が倒れた者を起こすことなど出来ないのです。
しっかり立っていなければ、共倒れになります。
テレビやラジオでたびたび流れる公共広告で強調される「思いやり」という言葉。この言葉は「同情して同じような状況に自分を置く」という事ではありません。
相手の気持ちを理解するために、時には手足におもりを付けたりするシニア体験であったり、1食を抜いて飢餓にさらされている人々のことを想像するという学習は必要なことではあります。しかし、食べられる環境にある育ち盛りの子どもが被災地を理解するという名目で腹を減らし続けるということが果たして必要であるのか、私には「必要である」という意見が理解できません。
だって、誰もがわかっているように、被災地に食料が届かないのは私たちが食料を食べ過ぎているからではないのですから。
状況的に立つことが出来る立場に置かれた者は、恥じることなく、遠慮することなく、むしろ率先してしっかり立つべきだと思います。
立てる者はしっかり立って、足を踏ん張って一生懸命手をさしのべるべきです。
震災によるいろいろな影響で、群馬県もいろんな産業に支障が出ています。
材料の調達が出来ないとか停電であるとか物理的にやむを得ないことについてはやむを得ないものとしてあきらめざるをえないこともありますが、
この、子どもたちの給食の事例のように、苦しみを共感するというような理由で
「こんな時に不謹慎だ」という発想での意見を気にして中止や自粛を続けるのは良くないと思います。
これは被災地を無視するとか、忘れるとかとは違います。
日本の国民として、この国を立て直す強い思いを持ってそれぞれの仕事を役割を果たさなければいけないということです。一生懸命に稼いで、見合った税金をきちんと納め、復興させるのです。
それぞれが自分の役目を果たしていくことでこの地震によって失ったものを取り返し、さらなる発展をさせようじゃありませんか。